秋元 忙しいなか待たされたのだから、ガッカリと思うでしょ。ところが違うんです。「謁見」できたっていう感動のほうが大きかったんですよ。そんなスター性を持っている人はなかなかいません。

僕はプロデュースする際に一貫したポリシーがありまして、「まな板の上の鯉になってください」と必ず言うんです。けれど実際には、なかなかそうならない。この歌は歌いたくないとか、私はこういうイメージじゃないとか、いろいろと主張する人はたくさんいる。ひばりさんがすごいのは、そんなことをひと言もおっしゃらないところです。

中村 なぜでしょう。

秋元 それは、圧倒的な自信があるから。当時僕は29歳の若造です。そんな駆け出しの人間が美空ひばりをどう料理しようが、それで失敗しようが、「美空ひばり」の価値は何も変わらない。だから好きにおやりなさい、ということでしょう。その迫力たるやね、すごいですよ。だから、逆にめちゃくちゃプレッシャーを感じました。

中村 さすが歌謡界のトップスターですね。

秋元 当時は僕も相当多忙で、詞が間に合わなくて相手を待たせてしまうこともあったんですが、ひばりさんから言われたのは、「録音当日の1週間前までに全曲を揃えて渡してほしい」というリクエストでした。約束通り、アルバムの10曲を必死で書いて、1週間前には耳を揃えてお渡ししました。

そのあと相談や変更の連絡は一切なく、レコーディング当日。ひばりさんは1週間、毎日練習して、完璧に仕上げた状態でおみえになった。あれだけ歌のうまい人が集中して歌を体に入れて、レコーディングに臨まれるんです。彼女はスタッフのミスを許さない人でしたが、自分自身も失敗できない状況に追い込んでいたのではないかと思います。

もちろん完璧に歌い上げ、1回で録音終了。ピリピリした緊張感の中で、本物の真剣勝負を目の当たりにしました。あれぞプロです。

中村 ひばり伝説はいろいろ聞いていましたけど、本当にものすごい方だったんですね。

秋元 ひばりさんのエピソードはつきないのですが、「川の流れのように」のレコーディングを終えたひばりさんが、僕の隣で曲のプレイバックを聞きながら、こうおっしゃいました。「これはいい曲。本当に詞がいいわ。人生って、曲がりくねっていたりまっすぐだったり、流れが速かったりとか、川のようなものなのよ。でもね、秋元さん、最後はみんな同じ海に注ぐのよ」

――その時僕は、ひばりさんは病気を克服して元気になられたと思っていて、言葉の意味を深く考えていなかった。でももしかしたら死を覚悟していたのかもしれません。ひばりさんが亡くなり、青山斎場に「川の流れのように」が流れた時、思ったんです。ひばりさんは、ここまで考えていたんじゃないかと。