「僕はプロデュースする際に一貫したポリシーがありまして、『まな板の上の鯉になってください』と必ず言うんです。けれど実際には、なかなかそうならない。」(撮影:木村直軌)
日本を代表する作詞家であり音楽プロデューサーである秋元康さん。大スター美空ひばりさんの歌った名曲の作詞から、AKB48グループや坂道シリーズなどのプロデュースまで、時代を超えてエンターテイメント作りにかかわってきた。秋元さんにとって、「本物のスター」とは──後編は「川の流れのように」の秘話から。(構成=中村竜太郎 撮影=木村直軌)

〈前編よりつづく

ひばりさんの真剣勝負

中村 1989年1月に発売された美空ひばりさんの「川の流れのように」は秋元さんの代表作の一つだと思います。美空ひばりさんとは、どんなふうに出会われたんですか。

秋元 ひょんなことからなんです。僕が作詞活動に忙殺されていた80年代後半。コロムビアレコードの方と雑談中に、「作詞家というふうに呼ばれるようになったので、歌謡界の最高峰、ひばりさんの詞はいつか書いてみたいですね」とポロッと言ったら、とんとん拍子にことが運び、企画書をくださいと。そこに「美空ひばりの歌は思い出の目次だ」と書いたんです。

流行歌というのは、思い出とリンクしている。「真っ赤な太陽」がヒットした頃ちょうど結婚したなとか、「悲しい酒」の時に長男が生まれた……とか。数ある名曲の目次の一つに、自分が作詞できたらどんなにいいかということを書いたら、ひばりさんが面白いと言ってくださった。ところが、ひばりさんが倒れてしまい、この話は延期に。

中村 87年、福岡公演での出来事ですね。

秋元 もう二度とチャンスはないなと諦めて、僕は僕でニューヨークへ移住して、1年半ほど住んでいたんです。ややあって改めてプロデュースをということで、一度会うことになり、撮影所で待つこと数時間。ようやく呼ばれると、ひばりさんが大勢のスタッフに囲まれて前方から歩いてきた。ニコッと笑って握手しながら、「あなたのことは、知ってるわよ」。この一言だけ残して、再びスタスタと行ってしまいました。

中村 多忙な秋元さんが数時間待って、出会いは一瞬……。