教育は誤配のリスクなしには不可能

むろんゲンロンが会社としてできることには限界があります。あたりまえですが、スクールのプログラムには飲み会は入っていません。それはあくまでも、生徒が自主的に、授業とは「関係なく」やるものです。

『ゲンロン戦記――「知の観客」をつくる』東浩紀・著/中公新書ラクレ

けれども、その「関係ない」ものこそがスクールの本質を支えている。だから飲み会の開催は妨げない。つまりゲンロンは飲み会に対して、責任があるようなないような中途半端な立場を取っている。まさにそのような中途半端さこそが、いまの大学では保てなくなっているものだと思います。ほんとうは大学の先生だって、教育にとって大事なのは講義だけじゃなく、生徒が飲み食いしながら親密なコミュニティをつくることだというのはわかっているはずです。けれども、いまの大学ではそういう親密さはリスクだと考えられている。トラブルが起きたときに、すべて大学の問題として対応せざるをえなくなっていますから。

経営危機にあった2012年から15年のあいだ、ゲンロンを救ってくれたのはカフェとスクールでした。それらはともに、偶然の連なりで始まり、予期せぬ方向へと成長していった、それ自体「誤配」に満ちた事業でもありました。ふたつを貫くゲンロンの精神もわかってもらえたのではないかと思います。

最後に、話が抽象的になりますが、オンラインとオフラインの関係についても触れておこうと思います。カフェでもスクールでも、ぼくが強調してきたのはオフラインの重要性でした。カフェならば、3時間でも4時間でも登壇者たちが顔を突きあわせて、壇上でじっくりと語りあう。スクールならば、授業が終わったあとの飲み会で議論する。ともにオフラインが大切という話です。

誤配はオフラインのコミュニケーションのほうがはるかに起きやすいものです。これはじつはぼくの大学院時代の専門である、ジャック・デリダというフランスの哲学者の主張と深く関わっています。