著者の思想の中核にあるのは

ただし、本書の読後感は必ずしも悪くない。著者がそれらの人々を非難するのではなく、むしろ自らの弱さや愚かさとして受け止めているからだ。信頼した人に裏切られた後、放置された領収書を一つひとつ整理し、棚を買って整理し、あらためて事務の重要性をしみじみ語るくだりは感動的でさえある。

『ゲンロン戦記――「知の観客」をつくる』東浩紀・著/中公新書ラクレ

本書が「オルタナティブな言論空間を自主的に組織すべく、奮闘した現代思想家の感動的手記!」というありがちな話と区別されるのは、このあたりのリアリティにあるのだろう。本書にはあくまで、五反田の雑居ビルで零細企業を経営する(今は経営から離れたが)人間の実感のようなものが感じられる。大学という組織の内部にとどまる研究者や、自らの発言や文章を既成のメディアで発信する批評家なら、けっしてこのような事業に手をつけないはずだ。が、そこにこそ著者の強さがある。

しかし、本書に意義があるとすれば、やはり著者の思想性、批評性に見出すべきであろう。著者の思想の中核にあるのは「誤配」である。情報やメッセージが、当初のねらいや意図とは異なる人や場所へと配達されてしまうこと、そこに著者は知の意味を見出す。窮地に陥った著者を救ったのも、ゲンロンカフェが思いがけず成功し、そこに意外な人々が集まったからだ。最初は著者のファンだけであった「観客」は、やがて意外な人々へと拡大していく。

筆者にも経験があるのだが、ゲンロンカフェのトークイベントには、台本のようなものはない。話はあちこちにそれ、蛇行し、やがて何の話をしているのかわからなくなる。筆者が登場したときなど、途中でワインを飲み過ぎた著者がいなくなり、しょうがないので来ていたお客さんと話して間を繋いだことがある。何を話したかはおぼえていないが、楽しかった記憶だけ残っている。これも意図せざる(あるいはそれが著者の半ば意図だったのかもしれない)「誤配」だったのだろう。