中間的な人々とのコミュニケーション

「観光」や「観客」の概念も論争を呼ぶところだろう。災害の被災地に視察に行ったときなど、どこか自分が非当事者であり、無責任な「観光客」に過ぎないと自責を感じることがある。本気ならばその場所に本気で関わる(最終的にはそこに移住する)のが、最も真剣な姿勢にも思える。ところが著者は、あえて「観光」の姿勢を擁護する。

たしかに当事者ではない。やがて自分の家に戻るのが「観光客」である。それでも現地に行き、見たものと自分のイメージのズレに気づき、そして考えることには意味があるのではないか。そしてあえてそのような「中途半端」な立場にとどまり、その意味を自覚的に引き受けるべきではないか。そこに著者は思想性と批評性を見出す。

そして、人々が「何を見たいか」という欲望それ自体を変容させ、「観客」を作り出すことを自らの使命とみなす。ファンや「信者」でもなければ、アンチでもない、中間的な人々とのコミュニケーションを重視する。

最後に著者は「ぼくみたいなやつ」を集め、仲間で集まろうとする自らの欲望を乗り越えようとする。はたして、そのような著者の決意がどこまで完遂されるかはわからない。それでも、本書を通じて、著者が真剣に戦い続けようとしていることだけは、十分に伝わってきたように思える。異色の思想書として本書を読んだ。