「どうして、噂と違うと思ったの?」
とりあえず訊くと、村中が「何となく」と言う。
「地に足がついた感じがする。丁寧に掃除してるし、食材の選び方もいい。仮に住んでるだけとは思えない」
はあ、と気の抜けた声が出る。言われた通り、この家には長く住むつもりだ。だから、お金をかけて修繕なんてしてもらっているのだ。
「それに、玄関に花を飾ってるし、庭木の手入れもしてるだろ」
この家には海が見える縁側と、狭いけれど庭があって、わたしの最近の仕事は庭いじりだ。秋には海に浮かぶ月を眺めて一杯やれたらなあ、と考えている。
「風俗嬢でもそれくらいすると思うけど?」
仕事に対する偏見では。そう言うと、村中は「ぶっちゃけてしまうと、風俗嬢の匂いがしない」と言った。お前もそう思うって言ってたよな、とケンタに同意を求め、それまでそわそわとわたしたちの様子を窺っていたケンタは、顔を真っ赤にして狼狽(うろた)えた。
「俺らの知ってるのと雰囲気全く違うもんな。こんなん、違うよな」
「な、なんちゅーこと言うんすか! ほんともう、黙ってくださいよ」
ケンタがわたしに「すんませんすんません」と頭を下げる。それから、「でも、違いますよね?」と訊いてきた。こいつも、気になってはいるのか。
「そういう仕事に就いたことはない」
ため息交じりに言うと、ケンタがほっとした顔を見せた。
「追ってくるようなヤクザもいない」
言いながら、だんだん腹が立って来る。なんでわざわざ、こんな説明をしなきゃならないんだ。近所に引っ越しの挨拶とかしてないけど、しなくちゃいけなかったの? こういう事情でやってきたんですけど、って? ていうか、どうして近くに住んだだけで身元証明しなくちゃならないんだ。
ああ、もう。引っ越してくる土地を間違えたのかな。他人と関わり合いたくなくてここまで来たのに、結局同じじゃないか。おへその少し上の辺りがぎゅっと疼き、思わず手をあてて気付く。
「ねえ、どうしてヤクザに切りつけられたなんて……」
問おうとして、しかしすぐに思い至る。あの個人病院だ。傷口が痛くて堪らなかったから、痛み止めと抗生剤を貰いに行った。
「信じらんない。個人情報ダダ洩れかよ」
思わず脱力して、座り込んだ。これって訴えられるんじゃないの。
「傷は、本当なのか」
村中が驚いたように言う。その間抜けな顔を睨みつけ、「どうせあんたもペラペラ話すんでしょ」と言った。
「もうどうでもいいや。ヤクザに追われてる風俗嬢でもAV女優でも、どうとでも言えばいいじゃん。どう思われようが平気だし」
本当は追い出してやりたいところだけど、床だけは直してもらわないと困る。寝室にする予定の洋室が酷い有様で、その部屋には荷物の搬入すらできていないのだ。
「床直したら、さっさと帰って」
もう、一緒の空間にいたくない。立ち上がり、メッセンジャーバッグを掴んだ。
「十八時まで出てるから」
「あ、三島さん! あの、待って! ほんと、謝りますんで!」
ケンタが上ずった声をあげるが、無視して家を出た。
潮臭い風が、怒りで火照(ほて)る頬を撫でた。どこへ行こうかと周囲を見回して、やっぱり海だなと思う。密集した家の隙間を縫うように走る小路を下ると、十分もせずに海に出るのだ。
わたしの住む家は、小高い丘のほぼ頂上にある。わたしの家から裾に広がる海の間には数十軒の古い家屋があって、その半分ほどが空き家だ。昔は漁場として栄えたらしいけれど、今は漁師になるひとが少なくて、その上どんどん都会に移り住んでいくとかで活気がない。とにかくひとがいない、と言っていたのは転入届を出しに行った役所のおじさんだった。その時は、若い人の転入は大歓迎だって喜ばれたんだけどなあ。そしてそのおじさんは、港や魚市場がある所まで出ればお店が増えて賑やかだとも言っていたけれど、東京に住んでいた身としては五十歩百歩だった。
潮で錆(さ)びたトタン屋根や固く閉めきられた雨戸を眺めながら、ゆるやかな坂を下る。かつてこの一帯の網元一家が住んでいたという大きな屋敷をぐるりと迂回して通りに出ると、定規で線を引いたような堤防が現れる。ところどころにひびの入ったコンクリート製のそれには、いくつか金属製の梯子がかかっている。釣り人がかけたのだろうか、堤防の上にはいつも、釣糸を垂らしている人影を見つける。今も、少し離れたところにふたりいた。腰の曲がったおじいさんたちで、あのふたりは毎日のようにいるのだが釣れたところを見たことがない。今日もきっと釣れないのだろう。
梯子を上ると、海が広がっている。右手側に港と魚市場があって、船が何艘か停まっているのが遠目に見える。左手の奥には、海岸。地元の子どもたちがよく水遊びをしている。ここからでは豆粒ほどにしか見えないけれど、今も何人か遊んでいるようだ。風に乗って、楽しそうな笑い声が聞こえる。世間的にはそろそろ夏休みに入っているころなのだろうか。
じりじりと焼けるコンクリートの上に仁王立ちし、「失敗した」と小さく声に出して呟いた。強い日差しを遮るものがないのに、ノーガードで出てきてしまった。グレーの長袖パーカーにデニムパンツだから手足はある程度防げるけれど、問題は顔。ノーメイクなのだ。家に戻って、日焼け止めを塗りたくりたい。ついでに日傘とか持ってきたい。振り返り、家のある方向を仰ぎ見る。小さな平屋建ての我が家は、ここからだとブルーの屋根しか見えない。屋根を見つめていると、苛々(いらいら)がぶり返してきた。