村中が足を止める。呆気(あっけ)にとられた顔に、「縁もゆかりもない土地に来たわけじゃないよ」と言う。親が長く放置して持て余していたから、譲り受けて引っ越してきたのだ。
「ここには、子どものころに何回か来たことがある。おじいさんたちに可愛がられた覚えがあるから、村中のおじいさんも、その中にいたのかもね」
みんな優しくしてくれて、わたしは海が見える小さな家が好きだった。
「だから、この土地にはいい印象を持ってたんだけど。そうか、そういうことならおばあさんたちには嫌われちゃうね」
まあ、どうでもいいけど。肩を竦(すく)めたわたしに対し、村中の方はおろおろしていた。焦る顔に、「おばあちゃんのことを綺麗って褒めてくれたんだから、気にすることないけど」と言う。村中は、ちょっと面白い男かもしれない。
「無口でいたのって、失言が多いから?」
訊くと、村中はしおしおと頷く。
「いつも、一言多いと怒られる」
当初抱いていた寡黙な職人像はすっかり崩れきってしまった。ひとの事情に下衆(げす)に踏み込んでくるクソ男というのとも、少し違った。そんなに悪いやつではないのか、いやしかし、ひとというのは分からない。村中の奥にはぞっとするような冷たい一面が潜んでいて、それが何かのきっかけで表面にでてくるということは充分あり得るのだ。
遠くで雷の音がする。村中が、「早く帰った方がいい」とわたしを促して先を歩きだす。振り返ると、海の向こうに稲光(いなびかり)が見えた。
雨が降り始めて、五日が過ぎた。夏の長雨は気温を下げて、驚くほど過ごしやすい。日課の庭の手入れができないので、縁側で昼寝をしたり本を読んだり、雨でくすむ海をぼんやりと眺める日々を過ごしていた。
今日も、午後から縁側に寝ころび、空を眺めていた。雨雲は厚く、晴れ間はどこにも見えない。暇つぶしに流しているラジオからは、数年前に流行(はや)ったポップスがジャズアレンジされて流れている。
「猫でも、飼おうかなあ」
ぽつんと呟いてみる。それからすぐに、わたしって弱い人間だなと思う。そういえばこの五日間、誰とも口をきいていないな。その前だって、村中以外とはまともに話してないんだった。などと考えたあとすぐにそんな台詞が出てくるなんて、弱すぎる。
東京のマンションを引き払う時に、携帯電話も解約した。誰にも―友人や工場の同僚たちには黙って、ひとりで大分に越してきた。実母だけはここにいると知っているけれど、あのひとはわたしと縁が切れたと喜んでいるはずだから、わざわざ来るはずもない。みんな、いずれはわたしのことなど忘れ去ってしまうだろう。
もう、誰とも関わり合いたくない。そう願ってそれを叶えたのに、温もりを求めている。寂しいと思ってしまう。
『貴瑚(きこ)はひとの温もりがないと生きていけない弱い生き物だよ。寂しさを知る人間は、寂しさを知ってるからこそ、失うことに怯えるものだから』
美晴(みはる)の声がして、気分が沈む。美晴は、わたしが世界の果てにひとりでいたころを知っている。わたしが、どれだけ温もりを求めていたかも。
美晴はわたしの入院先までやって来て『だからって、馬鹿だよ』と怒鳴った。こんなことしなくたって、あんたの周りにはたくさんのひとがいるじゃない。あんたはあんな男の愛情に固執しなくたってよかったんだ。あまりにも、周りを軽んじてるんじゃないの。
ベッドの上で、わたしはわたしへの非難の声を黙って聞いた。確かに今のわたしは孤独ではない。でも、たったひとつの応えなければならないものを傷つけてしまったのだ。こうでもしなければ、わたしは結局は死んでいたはずだ。
ちり、とお腹の奥が疼いて顔を顰める。Tシャツの上から手をあてて、そっと撫で擦る。