膝を抱え直し、目を閉じようとした時、水を跳ねる足音がゆっくりとこちらに近づいてきているのに気が付いた。思わず身構えると、サーモンピンクのTシャツにデニム姿の子どもが、傘も差さずに歩いてきた。遊んでいて、雨に降られたのだろうか。
「ねえ、あんた。こっちで雨宿りしたら?」
思わず声をかける。俯(うつむ)いているから顔のつくりが分からないけれど、肩まで伸びた髪や、線の細い体つきで、中学生くらいの女の子だと推察する。
「ねえ、こっち」
立ち上がり、少し声を大きくしてもう一度声をかける。女の子は雨に焦る様子もなく、ただ濡れている。前髪越しにちらりとわたしを見たから、手招きする。
「おいでよ」
女の子は足を止め、不思議そうにわたしを見つめた。しかしそれは一瞬のことで、ついと目を逸らしたかと思えば再び歩き始めた。ねえ、と声をかけたけれど、振り返ることもしない。女の子はあっという間に、雨の向こうに消えていった。
「変な子」
少しくらい反応してくれてもいいのに、と思う。まあ、ここで雨宿りをしていたって、止むのかどうかも怪しいところだけれど。座り直して、再び空を見上げた。この調子じゃわたしもびしょ濡れで帰らなくちゃならないかもしれない。ため息を吐くと、今度は勢いよく走ってくる足音がした。次いで「三島さん!」と大きな声がする。
「三島さん! 三島さん!」
走りながらわたしの名を叫んでいるのは、どうやら村中らしかった。うるさいし、迷子でもないんだからそんな風に探すのは止めて欲しい。返事をするのも嫌で黙っていたけれど、声はどんどん近づいてくる。
「三島さん! あ、いた!」
大きな黒い傘を差した村中は、壁と同化できなかったわたしに気付き、駆け寄ってくる。わたしの前でぜいぜいと全身で息をしてから「よかった」と言った。「傘、持ってなかったこと思い出して」
「はあ」
こめかみから流れているのは、雨ではなさそうだ。村中は「ごめんなさい」と深く頭を下げた。
「俺、いつも物言いが悪くて怒られるんだ。嫌な思いをさせて、ごめんなさい」
大きな体躯を丸めているのを、下から見上げる。少しだけ村中の右巻きのつむじを眺めていたわたしは、「いいよ」と言った。
「アンさんに慰めてもらったから、もういい」
村中が「誰」と顔を上げる。そのぽかんとした汗だくの顔に思わず噴きだしそうになった。
「とにかく、怒ってない。その代わり、わたしの素性とか事情を探るようなことはもう訊かないで。不愉快」
「分かった。ばあさんたちにも、絶対に突撃しないようにきつく言うから」
「突撃?」
村中は手の甲で汗を拭いながら、「この辺りのばあさんたちは、遠慮がないんだ」と言う。だから、集団で囲んで三島さんを質問攻めにするくらいのことはすると思う。それで、必ず口出しまでする。しかもそれを良かれと思ってやるもんだから、性質が悪い。
「うわ、最悪」
思わず顔を顰(しか)める。想像するだけで過呼吸を起こしてしまいそうだ。村中はうん、と素直に頷いた。
「だから、そんなことをする前にどうにかしようと思ってたんだけど、結局俺もばあさんたちと同じだったな」
叱られた子どものような情けない顔を見て、村中の暴言は善意からだったのだと、ここでようやく理解した。
「もういいよ。でも、その突撃ってのは絶対に止めさせて」
力強く村中が頷く。それから、手にしていたもう一本の傘をわたしに差し出した。
「床板の張替えは、全部終わった。家具移動、手伝わせてくれないかな」
寝室に入れる予定の箪笥やベッドは、廊下に置かれたままだ。ひとりでやろうと思っていたけれど、男手が使えるのなら、頼もうか。少しだけ悩んで、傘を受け取った。
「じゃあ、その分もお金払うからお願い」
「いや、お詫びだから。これは、うちのサービスってことで」
村中が顔を明るくする。意外と、表情が豊かだ。
「ケンタもいるし、すぐ終わるよ」
ふたりで歩きだす。しばらく無言で歩いていると、ふと思い出したように村中が口を開いた。
「そうか。あの家のせいかもしれない」
意味が分からずに顔を向けると、村中は「あの家に住んでいるから、ばあさんたちは三島さんのことを風俗嬢なんて言ったのかもしれない」と言う。
「なんで」
「あの家は、芸者をやっていたばあさんがひとりで住んでたんだ。昔取ったなんとかってやつなのか、長唄を教えていた。垢抜けてて、すっきりとした綺麗なひとだったよ。だから、この辺りの女好きのじいさんどもが競って稽古に通ってさ。うちのじいさんなんか入りびたりで、ばあさんとしょっちゅう喧嘩してた」
そうだそうだ、と村中は懐かしそうに目を細める。
「きっと、ばあさんたちにはそのイメージが残ってるんだな。三島さんには関係ないのになあ」
傘をくるくるまわしながら、ふうん、と相槌(あいづち)を打つ。
「そういうことなら、どちらにしてもわたしは風俗嬢って言われてたと思う」
「なんで」
「その芸者だったばあさん、わたしの祖母だもん」