おかあさんが、大好きだった。
人生を家族に搾取されてきた女性と、母親に「ムシ」と呼ばれている子ども。
愛を欲し、裏切られてきた孤独な魂が出会い、新たな物語が生まれる。
2021年本屋大賞受賞作、「王様のブランチ」BOOK大賞2020受賞の話題作、
冒頭を一挙公開!
動画配信中!
町田そのこ(まちだ・そのこ)
1980年生まれ。福岡県在住。「カメルーンの青い魚」で第十五回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。2017年に同作を含む『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。ほかの著書に『ぎょらん』『コンビニ兄弟―テンダネス門司港こがね村店―』、『うつくしが丘の不幸の家』などがある
1 最果ての街に雨
明日の天気を訊(き)くような軽い感じで、風俗やってたの? と言われた。フウゾク。一瞬だけ言葉の意味が分からなくてきょとんとし、それからはっと気付いて、反射的に男の鼻っ柱めがけて平手打ちした。ばちんと小気味よい音がする。
「馬鹿? あんた」
失礼なことを言ってきた男は、わたしが家の修繕をお願いした業者で村中(むらなか)という。部屋の床板が腐ってぶよぶよしていて、このままじゃ家の中で落とし穴にはまってしまうと思ったから、急ぎで直してくれと依頼した。彼がこの家に来たのは下見を含めて今日で三日目。暑い中の作業は大変だろうとこまめに冷たい飲み物を出し、お茶菓子まで用意して心配りした依頼主に、なんて言い草だろうか。
「なに失礼なこと訊いてんすか!」
村中の部下―たしかケンタとか呼ばれていた―が慌てる。それからわたしにぺこぺこと頭を下げた。ピンク頭に鼻ピアスという攻めたスタイルのわりに、真面目そうな態度だ。
「すんません、すんません。眞帆(まほろ)さんに悪気はねえんす。ただ、頭の中のこと垂れ流しで、このひと」
「てことは、頭の中でずっと考えてたってことでしょ。この女、風俗上がりだろうなって」
職に貴賎はない。それは分かっているけれど、しかしあまりにも無神経な物言いではないだろうか。一時間前に、三時のおやつとして冷え冷えのメロンを出してやった恩も忘れたのかと村中を睨む。年はわたしより多分いくつか上の、三十前後。短く刈った黒髪や、日に焼けた筋肉質な腕が逞しい。黙々と仕事をこなす様とかケンタに指示を飛ばす姿とか好印象だったけれど、一気にクソ男まで降格だ。鼻の頭を真っ赤にした村中は困ったように頭を掻(か)いて「そうじゃなくて」と言った。
「ばあさんたちがきっとそうだって騒いでるから、否定してやろうと思って」
「意味が分かんないんだけど」
辛抱強く村中の話を聞くと、どうやらわたしはこの周辺の住人の間で、東京から逃げてきた風俗嬢という話になっているのだという。縁もゆかりもない大分県の小さな海辺の町にひとりで越してきたのはヤクザに追われているからで、そのうえ体のどこかにヤクザに切りつけられた傷を抱えている、らしい。
「ばあさんたちの噂とは違うみたいだから、ちゃんと確認をしてな」
否定してやろうと、と村中はぶっきらぼうに言う。わたしは、はあ、と間の抜けた声を洩らした。わたしがここに越してきて、三週間ぐらいだろうか。この町は田舎すぎて満足に店もなくて、コンビニすらない。食料品は車で二十分のところにあるイオンか、徒歩で十五分のところにあるコンドウマートのどちらか。わたしは免許を持っていないのでコンドウマートを選ぶしかない。コンドウマートは倉庫を改装した感じの店で、食料品から日用品、衣料品や農機具まで扱っている。南国風の奇妙な柄ワンピやTシャツが、胴付き長靴や業務用ブルーシートの傍らに並んでいる店内はとにかく雑多でまとまりがない。最初のころは物珍しさでうろちょろしたものだけれど、すぐに飽きた。わたしには必要のないものばかりで、必要だと思うものはバリエーションが少なすぎる。シャンプーが一種類しか置いていないなんて、どういうことだ。
そのコンドウマートくらいしか出かけていないのに、一体どこで目について噂にまでなったのか。村中に訊くと、どうもそのコンドウマートであるらしい。誰とも満足な会話もしていないのに? と首を傾げるが、店の隅にあるイートインスペースに常駐している集団がいるのだという。そう言われれば、ベンチやテーブルが置かれたデッドスペースがあって、いつも誰かいたような気がするけれど、興味がないので気にも留めていなかった。しかし向こうはめちゃくちゃ興味津々で、わたしを観察していたのだそうだ。
「訳ありの雰囲気だし、働く様子はないのに金を持ってそうだし、これはきっとそうに違いないってばあさんたちが勝手な臆測をして盛り上がってるんだ。この町は小せえし、年寄りはいつも暇してるから、新しいモンがきたら一度は騒ぐんだ。三島(みしま)さんはその中でも、特に興味引きやすいんだと、思う」
村中の祖母は、コンドウマートの集団のひとりなのだという。同居している孫が噂の女の住む家の修繕に通い出したと知って、しつこく様子を訊いてくるのだと村中は少し恥ずかしそうに言って、頭を下げた。
「うちのばあさんは、とにかく思い込みの強い声のデカいひとなんだ。でも、間違いだって分かれば、訂正の声もデカくて」
だから訊いたんだ、としょんぼりと言う顔を見つめながら、面倒臭いなあと思う。風俗嬢でも何でも、どう思われてもいいんだけどな。今みたいに直接訊いてこられたら殴ればいいし、わたしの知らないところで囁かれるならどうでもいいし。でも村中はそれはよくないと考えたんだろう。