あの家で、静かに暮らすつもりで越してきた。ひとりでそっと生きていきたかった。そのために、あの家を手に入れたのだ。不便なこともあるけれど、馴染んでいけそうな気がしていた。なのに、まさかこんな風に土足で踏み込んでくる人間がいるなんて。
「ムカつく」
家に帰りたいけれど、クソ男どもと顔を突き合わせるのは嫌だ。仕方がないとため息を吐いて座り込んだ。せめてもの抵抗としてパーカーのフードを目深(まぶか)にかぶり、足を海側に放り出す。ぶらぶらと足を揺らしながら、遠くに視線を流した。揺れる水面が、夏の日差しを受けて眩しく煌めいている。水平線と入道雲がうつくしく分断され、海鳥が優雅に舞っている。潮風が頬を撫でるように通り過ぎていった。バッグを開き、中からMP3プレーヤーを取り出した。イヤホンを耳に押し込み、電源を入れる。
目を閉じて、耳を澄ます。遠く深いところからの歌声が、鼓膜を揺らす。泣いているような、呼びかけているような声。聴きながら、アンさんを思い出す。アンさんだったら、笑うだろうな。キナコは顔がいかがわしいからなーって。で、わたしは顔がいかがわしいって何だよ、顔がわいせつ物ってことかよって突っ込んで、アンさんはもっと笑ってわたしの頭を撫でる。嘘だよ、きっとキナコが垢抜(あかぬ)けて可愛いから、みんないろいろ想像しちゃったんだよ。でも、こんなに可愛らしい子がたったひとりで田舎に移り住む、なんて夢いっぱいのシチュエーションで、そんな安い想像しかできないなんて残念なひとたちだよね。まるで、往年の児童アニメのオープニング的な展開なのにさ。わたしの頭を何度だって撫でて、そう語ってくれただろう。
想像するだけで、胸の奥が温かくなる。そんなやりとりがあれば、わたしは笑ってやり過ごすことができただろう。
でも、アンさんはもういない。
「どうして、わたしを一緒に連れて行ってくれなかったの?」
ひとり呟く。無理やりでいいから、一緒に連れて行って欲しかった。あの時のわたしは、何も見えていなかった。誰の忠告も耳に入らなかった。だから、それくらい強引にしてくれないと、だめだったんだ。アンさんなら、わたしをどこに連れ去ってくれてもよかった。でも、そこまでしろなんてわたしは自分勝手すぎるよね。こんなだから、アンさんはわたしを置いて行ってしまったんだ。
イヤホンの声に意識を向ける。絶え間なく聞こえる声は深く響いてやまない。声はいつしかアンさんのものに代わり、アンさんが遠く近くなりながらわたしを呼んでいるような気がしてくる。ねえ、キナコ。キナコ、キナコ。アンさんの声はいつだってわたしを呼ぶばかりで、わたしの問いには答えてくれない。それはきっと、わたしへの罰なのだろう。
ぽつ。手の甲に何か当たって目を開ける。いつの間にか頭上に雨雲が広がっていた。驚いたのとほぼ同時に、勢いよく雨が降り始める。慌てて立ち上がり、雨宿りできそうな場所を探す。MP3プレーヤーをバッグに突っ込んで、一番手近な空き家の庇(ひさし)の下に駆け込んだ。びしょ濡れになったフードを脱ぎ、空を仰ぐ。通り雨と思いたいけれど、遠くの空まで灰色が広がっている。そういえば、ラジオの天気予報で夕方から雨とか言っていたような気もする。しばらくは雨が続くとか、なんとか。腕時計を見たら、十八時まで三十分以上ある。こんなことならバッグに文庫本の一冊でも忍ばせておくんだった。そのまま膝を抱えて座り込み、壁に背中を預けた。
目の前に、雨の紗幕(しゃまく)がかかっている。やっと馴染んできた風景が顔つきを変えて、見知らぬ場所に迷い込んだような錯覚を覚える。さっきまでと空気の温度も変わって、やわらかな雨音だけが耳に優しく響く。かさかさと音がして目を向けると、どこから現れたのか小さなカエルが這っていた。雨に呼ばれて出てきたのだろうか。
「どうして、こんなところにいるんだろうね」
小さく独りごつ。何もかも捨ててここに来た。なのに、わたしだけ置いて行かれたような、そんな焦燥感が胸の奥で燻っている。今すぐどこかへ行きたくて、でもそのどこかはここのはずなのに。