婦人公論
  • 最新号
  • アンケート・投稿
  • 定期購読
  • プレゼント
  • 会員登録
  • ログイン
会員限定 ランキング 芸能 読者手記 介護 お金 人間関係 漫画 レシピ 健康 美容 性愛 教養 占い 小説 連載
  • TOP
  • 連載
  • 滅びの前のシャングリラ/52ヘルツのクジラたち(2021本屋大賞ノミネート)
  • 本屋大賞受賞! 町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』冒頭を一挙掲載!
滅びの前のシャングリラ/52ヘルツのクジラたち(2021本屋大賞ノミネート)
2021年01月21日
教養 連載 寄稿

本屋大賞受賞! 町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』冒頭を一挙掲載!

町田そのこ 作家
×

会員限定の機能です。
詳細はこちら

印刷
X
Facebook

 

 あの家で、静かに暮らすつもりで越してきた。ひとりでそっと生きていきたかった。そのために、あの家を手に入れたのだ。不便なこともあるけれど、馴染んでいけそうな気がしていた。なのに、まさかこんな風に土足で踏み込んでくる人間がいるなんて。
「ムカつく」
 家に帰りたいけれど、クソ男どもと顔を突き合わせるのは嫌だ。仕方がないとため息を吐いて座り込んだ。せめてもの抵抗としてパーカーのフードを目深(まぶか)にかぶり、足を海側に放り出す。ぶらぶらと足を揺らしながら、遠くに視線を流した。揺れる水面が、夏の日差しを受けて眩しく煌めいている。水平線と入道雲がうつくしく分断され、海鳥が優雅に舞っている。潮風が頬を撫でるように通り過ぎていった。バッグを開き、中からMP3プレーヤーを取り出した。イヤホンを耳に押し込み、電源を入れる。
 目を閉じて、耳を澄ます。遠く深いところからの歌声が、鼓膜を揺らす。泣いているような、呼びかけているような声。聴きながら、アンさんを思い出す。アンさんだったら、笑うだろうな。キナコは顔がいかがわしいからなーって。で、わたしは顔がいかがわしいって何だよ、顔がわいせつ物ってことかよって突っ込んで、アンさんはもっと笑ってわたしの頭を撫でる。嘘だよ、きっとキナコが垢抜(あかぬ)けて可愛いから、みんないろいろ想像しちゃったんだよ。でも、こんなに可愛らしい子がたったひとりで田舎に移り住む、なんて夢いっぱいのシチュエーションで、そんな安い想像しかできないなんて残念なひとたちだよね。まるで、往年の児童アニメのオープニング的な展開なのにさ。わたしの頭を何度だって撫でて、そう語ってくれただろう。
 想像するだけで、胸の奥が温かくなる。そんなやりとりがあれば、わたしは笑ってやり過ごすことができただろう。
 でも、アンさんはもういない。

 

 

「どうして、わたしを一緒に連れて行ってくれなかったの?」
 ひとり呟く。無理やりでいいから、一緒に連れて行って欲しかった。あの時のわたしは、何も見えていなかった。誰の忠告も耳に入らなかった。だから、それくらい強引にしてくれないと、だめだったんだ。アンさんなら、わたしをどこに連れ去ってくれてもよかった。でも、そこまでしろなんてわたしは自分勝手すぎるよね。こんなだから、アンさんはわたしを置いて行ってしまったんだ。
 イヤホンの声に意識を向ける。絶え間なく聞こえる声は深く響いてやまない。声はいつしかアンさんのものに代わり、アンさんが遠く近くなりながらわたしを呼んでいるような気がしてくる。ねえ、キナコ。キナコ、キナコ。アンさんの声はいつだってわたしを呼ぶばかりで、わたしの問いには答えてくれない。それはきっと、わたしへの罰なのだろう。
 ぽつ。手の甲に何か当たって目を開ける。いつの間にか頭上に雨雲が広がっていた。驚いたのとほぼ同時に、勢いよく雨が降り始める。慌てて立ち上がり、雨宿りできそうな場所を探す。MP3プレーヤーをバッグに突っ込んで、一番手近な空き家の庇(ひさし)の下に駆け込んだ。びしょ濡れになったフードを脱ぎ、空を仰ぐ。通り雨と思いたいけれど、遠くの空まで灰色が広がっている。そういえば、ラジオの天気予報で夕方から雨とか言っていたような気もする。しばらくは雨が続くとか、なんとか。腕時計を見たら、十八時まで三十分以上ある。こんなことならバッグに文庫本の一冊でも忍ばせておくんだった。そのまま膝を抱えて座り込み、壁に背中を預けた。
 目の前に、雨の紗幕(しゃまく)がかかっている。やっと馴染んできた風景が顔つきを変えて、見知らぬ場所に迷い込んだような錯覚を覚える。さっきまでと空気の温度も変わって、やわらかな雨音だけが耳に優しく響く。かさかさと音がして目を向けると、どこから現れたのか小さなカエルが這っていた。雨に呼ばれて出てきたのだろうか。
「どうして、こんなところにいるんだろうね」
 小さく独りごつ。何もかも捨ててここに来た。なのに、わたしだけ置いて行かれたような、そんな焦燥感が胸の奥で燻っている。今すぐどこかへ行きたくて、でもそのどこかはここのはずなのに。

 

  • <
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • >
×

会員限定の機能です。
詳細はこちら

印刷
X
Facebook
ランキング
  • デイリー
  • ウイークリー
  • 1市営団地に住む、90歳と93歳の夫婦。「エアコンをつけずにぐったりしている」と隣人から相談が…【ヤベー高齢者ばかり担当しているケアマネの日常】
    市営団地に住む、90歳と93歳の夫婦。「エアコンをつけずにぐったりしている」と隣人から相談が…【ヤベー高齢者ばかり担当しているケアマネの日常】
  • 2大久保佳代子「歩道の10cmの縁石で〈下駄ばき骨折〉し、松葉杖に。更年期で不安が増し、部屋も汚れて悲しくなったけれど」
    大久保佳代子「歩道の10cmの縁石で〈下駄ばき骨折〉し、松葉杖に。更年期で不安が増し、部屋も汚れて悲しくなったけれど」
  • 3江原啓之「高齢になり息子夫婦と同居。最初は幸せだったはずが、だんだん居心地が悪くなった。ひとり暮らしに戻るべき?感謝の気持ちを忘れないで」【2026編集部セレクション】
    江原啓之「高齢になり息子夫婦と同居。最初は幸せだったはずが、だんだん居心地が悪くなった。ひとり暮らしに戻るべき?感謝の気持ちを忘れないで」【2026編集部セレクション】
  • 4田村淳「〈延命治療はせん〉と言い続けた母ちゃん。パンツ1枚残さず、告別式の弁当まで手配して旅立った」
    田村淳「〈延命治療はせん〉と言い続けた母ちゃん。パンツ1枚残さず、告別式の弁当まで手配して旅立った」
  • 578歳・財津和夫流、言葉が聴きとれないときの返し方。「まず、うなずきながら笑顔で『うーむ』と言う。そして…」
    78歳・財津和夫流、言葉が聴きとれないときの返し方。「まず、うなずきながら笑顔で『うーむ』と言う。そして…」
  • 678歳・財津和夫が考える最後の目標と終の棲家。「海が見える小さな家で犬や猫と暮らしたい。老人は自由なのだ。もはや失うものはない」
    78歳・財津和夫が考える最後の目標と終の棲家。「海が見える小さな家で犬や猫と暮らしたい。老人は自由なのだ。もはや失うものはない」
  • 7訪問先の農家から、両手で抱えきれないほどの〈泥付き皮付き〉ネギをもらい、デイサービスへ戻ると…【ヤベー高齢者ばかり担当しているケアマネの日常】
    訪問先の農家から、両手で抱えきれないほどの〈泥付き皮付き〉ネギをもらい、デイサービスへ戻ると…【ヤベー高齢者ばかり担当しているケアマネの日常】
  • 8コンビニにて「店長ば呼べー!」と叫ぶブチ切れクレーマー。いや、よく見たら…【ヤベー高齢者ばかり担当しているケアマネの日常】
    コンビニにて「店長ば呼べー!」と叫ぶブチ切れクレーマー。いや、よく見たら…【ヤベー高齢者ばかり担当しているケアマネの日常】
  • 9明日の『風、薫る』あらすじ。直美は教会で寛太に会う。「夕凪」の話を聞き…<ネタバレあり>
    明日の『風、薫る』あらすじ。直美は教会で寛太に会う。「夕凪」の話を聞き…<ネタバレあり>
  • 10大久保佳代子 高齢になった両親の老化具合がおもしろおかしい。愛犬とスパゲッティで口綱引きをする父に、電池切れのリモコンでテレビをつけようとする母
    大久保佳代子 高齢になった両親の老化具合がおもしろおかしい。愛犬とスパゲッティで口綱引きをする父に、電池切れのリモコンでテレビをつけようとする母
  • 1市営団地に住む、90歳と93歳の夫婦。「エアコンをつけずにぐったりしている」と隣人から相談が…【ヤベー高齢者ばかり担当しているケアマネの日常】
    市営団地に住む、90歳と93歳の夫婦。「エアコンをつけずにぐったりしている」と隣人から相談が…【ヤベー高齢者ばかり担当しているケアマネの日常】
  • 2『風、薫る』大家直美のモチーフ「鈴木雅」とは。武家の娘がフェリスで磨いた英語力で日本の近代看護の礎を確立
    『風、薫る』大家直美のモチーフ「鈴木雅」とは。武家の娘がフェリスで磨いた英語力で日本の近代看護の礎を確立
  • 3【101歳。ひとり暮らしの心得】ウォーキングも食事制限もしない。長生きの秘訣は「くよくよせず、好きなものを食べて、グーグー寝る」【2026編集部セレクション】
    【101歳。ひとり暮らしの心得】ウォーキングも食事制限もしない。長生きの秘訣は「くよくよせず、好きなものを食べて、グーグー寝る」【2026編集部セレクション】
  • 4江原啓之「高齢になり息子夫婦と同居。最初は幸せだったはずが、だんだん居心地が悪くなった。ひとり暮らしに戻るべき?感謝の気持ちを忘れないで」【2026編集部セレクション】
    江原啓之「高齢になり息子夫婦と同居。最初は幸せだったはずが、だんだん居心地が悪くなった。ひとり暮らしに戻るべき?感謝の気持ちを忘れないで」【2026編集部セレクション】
  • 5【夫が知らない真実】覚悟を決めた私が寝室の引き出しに忍ばせている〈あるもの〉とは【第10話まんが】
    【夫が知らない真実】覚悟を決めた私が寝室の引き出しに忍ばせている〈あるもの〉とは【第10話まんが】
  • 6大久保佳代子「歩道の10cmの縁石で〈下駄ばき骨折〉し、松葉杖に。更年期で不安が増し、部屋も汚れて悲しくなったけれど」
    大久保佳代子「歩道の10cmの縁石で〈下駄ばき骨折〉し、松葉杖に。更年期で不安が増し、部屋も汚れて悲しくなったけれど」
  • 7【まさか夫が!?】元の会社で働き始めた私。ある日帰宅すると、家の中から物音がして…【第9話まんが】
    【まさか夫が!?】元の会社で働き始めた私。ある日帰宅すると、家の中から物音がして…【第9話まんが】
  • 8「黒いススや傷があってもOK?」梅仕事を始める前に知っておきたい「完熟梅」の見分け方。和歌山「梅ボーイズ」リーダーが徹底解説
    「黒いススや傷があってもOK?」梅仕事を始める前に知っておきたい「完熟梅」の見分け方。和歌山「梅ボーイズ」リーダーが徹底解説
  • 9財津和夫「生ける屍になった気分だった」大腸がん手術、抗がん剤治療、うつ状態…過酷な経験から得た2つのこと
    財津和夫「生ける屍になった気分だった」大腸がん手術、抗がん剤治療、うつ状態…過酷な経験から得た2つのこと
  • 10明日の『風、薫る』あらすじ。千佳子から本心を打ち明けられたりんは悩み、思い切って千佳子の夫を呼び出す<ネタバレあり>
    明日の『風、薫る』あらすじ。千佳子から本心を打ち明けられたりんは悩み、思い切って千佳子の夫を呼び出す<ネタバレあり>
もっと見る
MOVIE
ー 婦人公論.jp 公式チャンネル ー

編集部おすすめ
オーバーザサン
最新号 好評発売中!
婦人公論最新号表紙
する側も、される側も自分を大切にする介護
最新号 次号予告 バックナンバー
発言小町注目トピ
  • 夫に最大限の復讐をするつもりです
  • 彼女が希望する婚約指輪が高すぎる
  • 自分に嫌がらせをしていた元同級生の通夜に参列するか
中央公論新社の本
ベルサイユのばら1
ベルサイユのばら1
池田理代子 著
詳しくみる

インフォメーション

  • 「女性の心と体をととのえる 50代からのセルフケア講座」開催
    「女性の心と体をととのえる 50代からのセルフケア講座」開催
  • 耳にすっぽり!オーティコン補聴器、新しいスタイルで All in Ear の「オーティコン ジール」を発売
    耳にすっぽり!オーティコン補聴器、新しいスタイルで All in Ear の「オーティコン ジール」を発売
  • 脳の健康習慣をサポートするオープンイヤー型イヤホン「kikippa イヤホン HERALBONY モデル」発売
    脳の健康習慣をサポートするオープンイヤー型イヤホン「kikippa イヤホン HERALBONY モデル」発売
  • 【編集部より】広告ページについてのお詫びと訂正
    【編集部より】広告ページについてのお詫びと訂正
  • あなたのペット自慢を教えてください!
    あなたのペット自慢を教えてください!
  • 【編集部より】公式アドレスの不正利用について
    【編集部より】公式アドレスの不正利用について
インフォメーション一覧
婦人公論
  • 婦人公論とは
  • サイトポリシー/データの収集と利用について
  • 「ff倶楽部」会員規約
  • 「ff倶楽部」よくあるご質問
  • お問い合わせ
  • 広告掲載
婦人公論

CHUOKORON-SHINSHA,INC.All right reserved

ページのトップへ