メロディが遠ざかり、代わりに女性パーソナリティの華やかな声が響く。九州地方は停滞前線の影響で現在長雨が続いていますが、前線はゆっくりと北東に移動しています。週明けには晴れ間が見えるとのこと。みなさん、ようやく夏が戻ってきますねえ。
外は、雨。この雨が止む時がくるなんて、到底思えない。お腹を撫でながら、立ち上がった。
「買い物、行こう」
声に出して言ってみる。家に篭もっているから、いけないのだ。久しぶりにコンドウマートに行こう。ちょっといいお肉とワインを買って、豪勢な夕食を作ろう。財布を持って、家を出た。
買い物になんか出なきゃよかったと思ったのは、支払いを終えてからだった。レジ袋に商品を詰めていると肩を叩かれ、振り返ると知らないおばあさんが立っていた。この店で買ったのだと思われる、リアルなゾウ模様のムームーを着ている。
「あんた、人生の無駄遣いやがね」
おばあさんは強い方言を交え、まくしたてるように話し始めた。聞き取れる単語を拾い集めると、どうもわたしが働かずに暮らしていることを責めているらしい。若いのにとか人生のさぼりとか言っていて、それをぼうっと見ているわたしに腹が立つのかどんどんヒートアップしてくる。濁った目が、わたしを逃がすまいとぐるぐる動いている。何だこれ、と思っていると、店長の名札を付けたおじさんが慌てて間に入って来た。疋田(ひきた)さんダメでしょう、と言っているのを聞いて、村中じゃなくてよかったと頭の片隅で思う。ていうか村中、絶対阻止するって言ってたのはどうした。何となく周囲を見回すと、店内のほとんどのひとがこちらを見ていた。困ったように眉を下げているひとよりも、余興でも眺めているような愉快そうな目を向けているひとが多い。
「……あの。わたし、もう行っていいですか」
言うと店長は「すみません、どうぞどうぞ」と申し訳なさそうに頭を下げ、疋田とやらは「誰かが言うてやらにゃあ」と声を大きくする。知らんふりしてどうすっとね。あんなのを認めてたら人間が駄目になるが。いや、ありゃもう駄目人間やが。生きてるだけ、無駄よ。その声を背に、店を出た。
調子に乗って赤ワインを二本も買ったから、袋が重い。手のひらに食い込む袋をぎゅっと握り、もう片方の手で傘を差す。雨は勢いを増すばかりで、それに比例して気が滅入ってくる。ああ、買い物になんか出るんじゃなかった。家でカップラーメンでも啜っておけばよかったのだ。
薄いゴムサンダルを履いた足は跳ねた泥水(どろみず)で濡れ、Tシャツはしっとり湿って肌に張り付く。湿気を吸うと膨れてしまう天然パーマの頭は、きっとぼさぼさだろう。
強い風が吹いて、傘が手元からむしりとられるように飛んでいった。舞い上がった傘は、空き家の門扉の前にふわりと落ちた。追おうとして、しかし止める。急に、どうでもよくなった。どうせ三百円のビニール傘だ、惜しくもない。傘どころか、手にした買い物袋すらもういらないと思う。ワインのボトルなんて砕けてしまえばいい。肉だってガラス片まみれになってしまえばいい。何もかも投げ捨てたい衝動に駆られて、でもそんなことしたって感情をセーブできない自分を嫌悪するだけだ。叩きつけるのをどうにか堪えた瞬間、お腹に刺すような痛みが走った。息が止まって、その場に座り込む。地面に放るように置いた袋の中のワインが、がしゃがしゃと音を立てた。
痛い、痛い。包丁が突き刺さったあの時と同じ痛みで、息ができない。もしかして、傷が膿んだりしてる? ううん、あれはもう治ったはずだ。あの個人病院の医者だって、気持ちの問題が大きそうですねと言ってたじゃないか。でも痛い。お腹を押さえて、蹲る。体が勝手に震え、涙がぼろぼろと零れた。このまま、死んでしまうかもしれない。誰もわたしを知らない場所で、ひっそり死んでしまうかもしれない。
「アンさん、アンさん」
こんな時、呼んでしまう名前はひとつしかない。
「助けて、アンさん」
食いしばった歯の隙間から絞り出すように言うと、ぴたりと雨が止んだ。驚いて顔を上げると目の前にジーンズを穿いた足がにゅうと伸びていて、もっと見上げると、飛んでいったはずのわたしの傘を差した女の子がいた。サーモンピンクのTシャツや長い髪に見覚えがあって、以前に見た子だと思う。泣き顔のわたしを見て、女の子は驚いたように目を見開いた。
この子はどうして、わたしのところに来たのだろう。だってこの間は、何度声をかけたって足を向けようとしなかった。なのにどうして、今このタイミングで?
女の子が小首を傾げて、自分のお腹の辺りを撫でる。何か問うように唇が動くが、音は出ない。喋れないのだろうか。無意識に少女を観察していたわたしは、シャツの袖の奥を見て一瞬息を呑む。ちらりと、見慣れた色を見つけた気がした。
「あ……、その。だ、いじょうぶ」
さっきまでの暴力的な痛みは、ゆっくりと収束している。涙を拭って言うと、女の子は頷いた。耳は聞こえているらしい。
「あの、ありがとう」
女の子は、わたしだけに傘を差しかけてくれている。自分の傘は持っていないらしく、ぐっしょり濡れている。その濡れそぼった体を見て、彼女がやけに薄汚れていることに気付く。シャツの襟元は茶色く染まり、袖や裾はほつれている。ジーンズも同じような状態で、履いているスニーカーはボロボロなうえサイズが合っていないようだ。髪も、伸ばしているのではない。伸びきっているだけだ。
わたしの顔から痛みが消えたことが分かったのか、女の子はわたしの目の前に傘を置き、さらりと立ち去ろうとする。その服の裾を慌てて掴んだ。待って待って、と縋(すが)る。女の子がびくりと震えて振り返り、わたしを見た。
「あ、あのね。また痛くて動けなくなっちゃうかもしれない。だから、その……家まで送って!」
ここで別れてはいけない気がして、必死に言った。そうだ。さっき、お肉買いすぎちゃったの。食べきれないし、一緒に食べてくれないかな。ステーキ好き? わたし肉を焼くの、めちゃくちゃうまいんだよ。女の子は顔を強張(こわば)らせて唇を動かすけれど、音はない。
「いい? ありがとう。じゃあ行こう。この坂道の上の家なの」
意思が伝わりにくいのをいいことに、女の子を半ば無理やり連れ帰った。
帰りついてすぐに、お風呂の支度(したく)を始めた。玄関で立ち尽くしている女の子は顔色を真っ青にしているけれど、気付かないふりをする。帰りたそうなそぶりを見せたら、「もう少しいてね。お腹痛くなるかもしれないから」と言って引き留めた。そしてお湯が溜まったあたりで、「お風呂入ろう」と手を掴んだ。首を振って嫌がるけれど、「わたしのせいで風邪をひかせたら大変だから」と引きずるように脱衣所まで連れて行った。彼女を怖がらせないように笑顔を作っていて、その笑顔の陰でわたしって本当に馬鹿だなと思う。猫を拾おうとしてるのだ。いや違う。そんなんじゃない。でも、善意だけでもないんじゃないの?
「一緒に入ろう。わたし、寒くて死にそう」
脱衣所のドアの前で固まってしまっている女の子の前で、服を脱ぐ。雫が垂れるTシャツやジーンズを洗濯機に放って下着姿になって振り返ると、女の子が息を呑んだ。視線の先は、わたしのお腹だ。おへそより五センチほど上のところの、まだ鮮やかな傷痕を凝視している。わたしはそこを指差して、へらりと笑った。