婦人公論
  • 最新号
  • アンケート・投稿
  • 定期購読
  • プレゼント
  • 会員登録
  • ログイン
会員限定 ランキング 芸能 読者手記 介護 お金 人間関係 漫画 レシピ 健康 美容 性愛 教養 占い 小説 連載
  • TOP
  • 連載
  • 滅びの前のシャングリラ/52ヘルツのクジラたち(2021本屋大賞ノミネート)
  • 本屋大賞受賞! 町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』冒頭を一挙掲載!
滅びの前のシャングリラ/52ヘルツのクジラたち(2021本屋大賞ノミネート)
2021年01月21日
教養 連載 寄稿

本屋大賞受賞! 町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』冒頭を一挙掲載!

町田そのこ 作家
×

会員限定の機能です。
詳細はこちら

印刷
X
Facebook

 

 メロディが遠ざかり、代わりに女性パーソナリティの華やかな声が響く。九州地方は停滞前線の影響で現在長雨が続いていますが、前線はゆっくりと北東に移動しています。週明けには晴れ間が見えるとのこと。みなさん、ようやく夏が戻ってきますねえ。
 外は、雨。この雨が止む時がくるなんて、到底思えない。お腹を撫でながら、立ち上がった。
「買い物、行こう」
 声に出して言ってみる。家に篭もっているから、いけないのだ。久しぶりにコンドウマートに行こう。ちょっといいお肉とワインを買って、豪勢な夕食を作ろう。財布を持って、家を出た。
 買い物になんか出なきゃよかったと思ったのは、支払いを終えてからだった。レジ袋に商品を詰めていると肩を叩かれ、振り返ると知らないおばあさんが立っていた。この店で買ったのだと思われる、リアルなゾウ模様のムームーを着ている。
「あんた、人生の無駄遣いやがね」
 おばあさんは強い方言を交え、まくしたてるように話し始めた。聞き取れる単語を拾い集めると、どうもわたしが働かずに暮らしていることを責めているらしい。若いのにとか人生のさぼりとか言っていて、それをぼうっと見ているわたしに腹が立つのかどんどんヒートアップしてくる。濁った目が、わたしを逃がすまいとぐるぐる動いている。何だこれ、と思っていると、店長の名札を付けたおじさんが慌てて間に入って来た。疋田(ひきた)さんダメでしょう、と言っているのを聞いて、村中じゃなくてよかったと頭の片隅で思う。ていうか村中、絶対阻止するって言ってたのはどうした。何となく周囲を見回すと、店内のほとんどのひとがこちらを見ていた。困ったように眉を下げているひとよりも、余興でも眺めているような愉快そうな目を向けているひとが多い。
「……あの。わたし、もう行っていいですか」
 言うと店長は「すみません、どうぞどうぞ」と申し訳なさそうに頭を下げ、疋田とやらは「誰かが言うてやらにゃあ」と声を大きくする。知らんふりしてどうすっとね。あんなのを認めてたら人間が駄目になるが。いや、ありゃもう駄目人間やが。生きてるだけ、無駄よ。その声を背に、店を出た。
 調子に乗って赤ワインを二本も買ったから、袋が重い。手のひらに食い込む袋をぎゅっと握り、もう片方の手で傘を差す。雨は勢いを増すばかりで、それに比例して気が滅入ってくる。ああ、買い物になんか出るんじゃなかった。家でカップラーメンでも啜っておけばよかったのだ。
 薄いゴムサンダルを履いた足は跳ねた泥水(どろみず)で濡れ、Tシャツはしっとり湿って肌に張り付く。湿気を吸うと膨れてしまう天然パーマの頭は、きっとぼさぼさだろう。
 強い風が吹いて、傘が手元からむしりとられるように飛んでいった。舞い上がった傘は、空き家の門扉の前にふわりと落ちた。追おうとして、しかし止める。急に、どうでもよくなった。どうせ三百円のビニール傘だ、惜しくもない。傘どころか、手にした買い物袋すらもういらないと思う。ワインのボトルなんて砕けてしまえばいい。肉だってガラス片まみれになってしまえばいい。何もかも投げ捨てたい衝動に駆られて、でもそんなことしたって感情をセーブできない自分を嫌悪するだけだ。叩きつけるのをどうにか堪えた瞬間、お腹に刺すような痛みが走った。息が止まって、その場に座り込む。地面に放るように置いた袋の中のワインが、がしゃがしゃと音を立てた。
 痛い、痛い。包丁が突き刺さったあの時と同じ痛みで、息ができない。もしかして、傷が膿んだりしてる? ううん、あれはもう治ったはずだ。あの個人病院の医者だって、気持ちの問題が大きそうですねと言ってたじゃないか。でも痛い。お腹を押さえて、蹲る。体が勝手に震え、涙がぼろぼろと零れた。このまま、死んでしまうかもしれない。誰もわたしを知らない場所で、ひっそり死んでしまうかもしれない。
「アンさん、アンさん」
 こんな時、呼んでしまう名前はひとつしかない。
「助けて、アンさん」

 

 

 食いしばった歯の隙間から絞り出すように言うと、ぴたりと雨が止んだ。驚いて顔を上げると目の前にジーンズを穿いた足がにゅうと伸びていて、もっと見上げると、飛んでいったはずのわたしの傘を差した女の子がいた。サーモンピンクのTシャツや長い髪に見覚えがあって、以前に見た子だと思う。泣き顔のわたしを見て、女の子は驚いたように目を見開いた。
 この子はどうして、わたしのところに来たのだろう。だってこの間は、何度声をかけたって足を向けようとしなかった。なのにどうして、今このタイミングで?
 女の子が小首を傾げて、自分のお腹の辺りを撫でる。何か問うように唇が動くが、音は出ない。喋れないのだろうか。無意識に少女を観察していたわたしは、シャツの袖の奥を見て一瞬息を呑む。ちらりと、見慣れた色を見つけた気がした。
「あ……、その。だ、いじょうぶ」
 さっきまでの暴力的な痛みは、ゆっくりと収束している。涙を拭って言うと、女の子は頷いた。耳は聞こえているらしい。
「あの、ありがとう」
 女の子は、わたしだけに傘を差しかけてくれている。自分の傘は持っていないらしく、ぐっしょり濡れている。その濡れそぼった体を見て、彼女がやけに薄汚れていることに気付く。シャツの襟元は茶色く染まり、袖や裾はほつれている。ジーンズも同じような状態で、履いているスニーカーはボロボロなうえサイズが合っていないようだ。髪も、伸ばしているのではない。伸びきっているだけだ。
 わたしの顔から痛みが消えたことが分かったのか、女の子はわたしの目の前に傘を置き、さらりと立ち去ろうとする。その服の裾を慌てて掴んだ。待って待って、と縋(すが)る。女の子がびくりと震えて振り返り、わたしを見た。
「あ、あのね。また痛くて動けなくなっちゃうかもしれない。だから、その……家まで送って!」
 ここで別れてはいけない気がして、必死に言った。そうだ。さっき、お肉買いすぎちゃったの。食べきれないし、一緒に食べてくれないかな。ステーキ好き? わたし肉を焼くの、めちゃくちゃうまいんだよ。女の子は顔を強張(こわば)らせて唇を動かすけれど、音はない。
「いい? ありがとう。じゃあ行こう。この坂道の上の家なの」
 意思が伝わりにくいのをいいことに、女の子を半ば無理やり連れ帰った。
 帰りついてすぐに、お風呂の支度(したく)を始めた。玄関で立ち尽くしている女の子は顔色を真っ青にしているけれど、気付かないふりをする。帰りたそうなそぶりを見せたら、「もう少しいてね。お腹痛くなるかもしれないから」と言って引き留めた。そしてお湯が溜まったあたりで、「お風呂入ろう」と手を掴んだ。首を振って嫌がるけれど、「わたしのせいで風邪をひかせたら大変だから」と引きずるように脱衣所まで連れて行った。彼女を怖がらせないように笑顔を作っていて、その笑顔の陰でわたしって本当に馬鹿だなと思う。猫を拾おうとしてるのだ。いや違う。そんなんじゃない。でも、善意だけでもないんじゃないの?
「一緒に入ろう。わたし、寒くて死にそう」
 脱衣所のドアの前で固まってしまっている女の子の前で、服を脱ぐ。雫が垂れるTシャツやジーンズを洗濯機に放って下着姿になって振り返ると、女の子が息を呑んだ。視線の先は、わたしのお腹だ。おへそより五センチほど上のところの、まだ鮮やかな傷痕を凝視している。わたしはそこを指差して、へらりと笑った。

 

  • <
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • >
×

会員限定の機能です。
詳細はこちら

印刷
X
Facebook
ランキング
  • デイリー
  • ウイークリー
  • 1「親の面倒は長女の役割」と手伝わなかった妹が遺産の相続権だけは求めてきて。それでも「介護をしてよかった」と思えたのは…
    「親の面倒は長女の役割」と手伝わなかった妹が遺産の相続権だけは求めてきて。それでも「介護をしてよかった」と思えたのは…
  • 2『あんぱん』モデル・やなせたかしさん、暢さん夫妻の〈金銭感覚〉。堅実でつつましい先生に対し「カミさんはオレと逆で、明日お金が入るとなると…」
    『あんぱん』モデル・やなせたかしさん、暢さん夫妻の〈金銭感覚〉。堅実でつつましい先生に対し「カミさんはオレと逆で、明日お金が入るとなると…」
  • 3【介護の苦労でマウントを取る友人】SNSの裏アカで愚痴を言い、店員さんに傍若無人な態度…明るい友人は介護で変わってしまった【第10話まんが】
    【介護の苦労でマウントを取る友人】SNSの裏アカで愚痴を言い、店員さんに傍若無人な態度…明るい友人は介護で変わってしまった【第10話まんが】
  • 4『あんぱん』次週予告<私が信じていた正義は間違っていました>後悔するのぶに「これからの話をしよう」と伝えた次郎。そして復員した嵩は「正義なんか簡単にひっくり返る」と語り…
    『あんぱん』次週予告<私が信じていた正義は間違っていました>後悔するのぶに「これからの話をしよう」と伝えた次郎。そして復員した嵩は「正義なんか簡単にひっくり返る」と語り…
  • 5NHK『あさイチ』で「眉の悩み大解決」特集。眉毛をペンシルだけで描いていませんか?大人世代はアイブロウパウダーで一気に垢抜け!
    NHK『あさイチ』で「眉の悩み大解決」特集。眉毛をペンシルだけで描いていませんか?大人世代はアイブロウパウダーで一気に垢抜け!
  • 6【1番大変なのは私】親を介護中の友人とランチ会。愚痴を聞いてもらうはずが…苦労マウントを取ってきた【第9話まんが】
    【1番大変なのは私】親を介護中の友人とランチ会。愚痴を聞いてもらうはずが…苦労マウントを取ってきた【第9話まんが】
  • 7『あんぱん』に<アンパンマン>声優・戸田恵子さん出演決定。役名は…薪鉄子(まきてつこ)!「天国のやなせ先生にも喜んでいただけるよう頑張ります」
    『あんぱん』に<アンパンマン>声優・戸田恵子さん出演決定。役名は…薪鉄子(まきてつこ)!「天国のやなせ先生にも喜んでいただけるよう頑張ります」
  • 8明日の『あんぱん』あらすじ。海軍病院にいる次郎に会いに行くのぶ。戦況が厳しくなり、高知の町にも空襲警報が鳴り響き…<ネタバレあり>
    明日の『あんぱん』あらすじ。海軍病院にいる次郎に会いに行くのぶ。戦況が厳しくなり、高知の町にも空襲警報が鳴り響き…<ネタバレあり>
  • 9【介護される義母のホンネ】嫌味ばかり言っていた裏には…「リモコン取って」「髪をとかして」こき使われてばかりだと思っていた【第8話まんが】
    【介護される義母のホンネ】嫌味ばかり言っていた裏には…「リモコン取って」「髪をとかして」こき使われてばかりだと思っていた【第8話まんが】
  • 10【義母の介護を手伝わない夫】頼み事はすべて自分に言われて、不満が溜まる…「在宅勤務だからって自由に動けるわけじゃない」【第4話まんが】
    【義母の介護を手伝わない夫】頼み事はすべて自分に言われて、不満が溜まる…「在宅勤務だからって自由に動けるわけじゃない」【第4話まんが】
  • 1【義母の介護を手伝わない夫】頼み事はすべて自分に言われて、不満が溜まる…「在宅勤務だからって自由に動けるわけじゃない」【第4話まんが】
    【義母の介護を手伝わない夫】頼み事はすべて自分に言われて、不満が溜まる…「在宅勤務だからって自由に動けるわけじゃない」【第4話まんが】
  • 2『あんぱん』次週予告 <どこが正義の戦争なんだ>戦場にて空腹で倒れ込んだ嵩が「また食べたい」と願ったのは…一方、焼野原に立ち尽くすのぶ。叫ぶ蘭子が抱きしめているのは…
    『あんぱん』次週予告 <どこが正義の戦争なんだ>戦場にて空腹で倒れ込んだ嵩が「また食べたい」と願ったのは…一方、焼野原に立ち尽くすのぶ。叫ぶ蘭子が抱きしめているのは…
  • 3『あんぱん』モデル・やなせたかしさん、暢さん夫妻の〈金銭感覚〉。堅実でつつましい先生に対し「カミさんはオレと逆で、明日お金が入るとなると…」
    『あんぱん』モデル・やなせたかしさん、暢さん夫妻の〈金銭感覚〉。堅実でつつましい先生に対し「カミさんはオレと逆で、明日お金が入るとなると…」
  • 4【娘のお金をアテにしないで】蓄えが無くお金を頼ってくる父。高額商品の購入を叱ると「年老いた父親をイジメるな」と言われて…【第5話まんが】
    【娘のお金をアテにしないで】蓄えが無くお金を頼ってくる父。高額商品の購入を叱ると「年老いた父親をイジメるな」と言われて…【第5話まんが】
  • 5【1番大変なのは私】親を介護中の友人とランチ会。愚痴を聞いてもらうはずが…苦労マウントを取ってきた【第9話まんが】
    【1番大変なのは私】親を介護中の友人とランチ会。愚痴を聞いてもらうはずが…苦労マウントを取ってきた【第9話まんが】
  • 6【これって介護マウント…?】親を介護中の友だち4人でランチ会。施設に入れ、新幹線で会いに行く友人に、イライラを抑えられない様子で…【第6話まんが】
    【これって介護マウント…?】親を介護中の友だち4人でランチ会。施設に入れ、新幹線で会いに行く友人に、イライラを抑えられない様子で…【第6話まんが】
  • 7【介護される義母のホンネ】嫌味ばかり言っていた裏には…「リモコン取って」「髪をとかして」こき使われてばかりだと思っていた【第8話まんが】
    【介護される義母のホンネ】嫌味ばかり言っていた裏には…「リモコン取って」「髪をとかして」こき使われてばかりだと思っていた【第8話まんが】
  • 8【介護の苦労でマウントを取る友人】SNSの裏アカで愚痴を言い、店員さんに傍若無人な態度…明るい友人は介護で変わってしまった【第10話まんが】
    【介護の苦労でマウントを取る友人】SNSの裏アカで愚痴を言い、店員さんに傍若無人な態度…明るい友人は介護で変わってしまった【第10話まんが】
  • 9【介護の苦労はみんな平等?】親を介護する友人で集合。家族に言えないホンネを話して、スッキリしたはずだけど…【第7話まんが】
    【介護の苦労はみんな平等?】親を介護する友人で集合。家族に言えないホンネを話して、スッキリしたはずだけど…【第7話まんが】
  • 10『あんぱん』朝ドラ初出演・妻夫木聡 「八木は嵩のことを考えすぎだけど、人類の希望として残したい人間だった」北村匠海を支える役に喜び
    『あんぱん』朝ドラ初出演・妻夫木聡 「八木は嵩のことを考えすぎだけど、人類の希望として残したい人間だった」北村匠海を支える役に喜び
もっと見る
MOVIE
ー 婦人公論.jp 公式チャンネル ー

編集部おすすめ
もうじきたべられるぼく特設サイト
最新号 好評発売中!
婦人公論最新号表紙
何歳からでも効果あり!老化を遅らせる新習慣、始めよう
最新号 次号予告 バックナンバー
発言小町注目トピ
  • 29歳女、離婚を迫られてます。
  • 怒っている義母に謝るべき?
  • どの発言が気に障ったのでしょう?
中央公論新社の本
いじめのある世界に生きる君たちへ
いじめのある世界に生きる君たちへ
いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉
中井久夫 著
詳しくみる

インフォメーション

  • 半分以上が露天風呂!“客室付き露天風呂”を独占「雲仙おひとり湯ごもり滞在」
    半分以上が露天風呂!“客室付き露天風呂”を独占「雲仙おひとり湯ごもり滞在」
  • 【編集部より】お詫びと訂正
    【編集部より】お詫びと訂正
  • 【編集部より】公式アドレスの不正利用について
    【編集部より】公式アドレスの不正利用について
インフォメーション一覧
婦人公論
  • 婦人公論とは
  • サイトポリシー/データの収集と利用について
  • 「ff倶楽部」会員規約
  • 「ff倶楽部」よくあるご質問
  • お問い合わせ
  • 広告掲載
婦人公論

CHUOKORON-SHINSHA,INC.All right reserved

ページのトップへ