『どの子も違う――才能を伸ばす子育て 潰す子育て』(著:中邑賢龍/中公新書ラクレ)

「うちの子はやればできる」の罪

親が望む理想的な子ども像とは、「健康で元気が良く、明るく賢くて、人に対しては優しく、仲良くやっていける」といったところでしょうか。誰が決めたわけでもないのですが、実際に社会の中でも定着しているように思えます。

ただし、子どもの特性は皆違います。たとえば宿題や受験勉強を難なくこなす子がいれば、苦手な子どもも当然います。人の生き方も、一流大学を出て一流企業に就職すれば"勝ち組"という考えはすでに通じなくなり、多様化しています。

それなのに、親はかつての理想像に子どもを近づけるべく、頑張る。そして強制されたり叱られたりすると、それができない子どもの場合、激しく抵抗するか、内に籠もっていくかといういずれかの道を進むことになります。

そもそも「宿題をやりなさい」と言われて、できる子はすぐにやっています。言い訳を持ち出してやらない子は、それなりの理由があるのです。

しかし、親は理想追求の手を緩めません。それは、子どもの事情を聞くよりも「うちの子はやればできる」という思いの方が強いからです。

 

「勉強ができれば大丈夫」ではない

なかにはモノで子どもの機嫌をとり、それでやらせようと考える親もいるでしょう。

たとえば先日、小学校6年生のNさんに「なぜ勉強しているの?」とたずねたら、「勉強したら、お父さんやお母さんがゲームを買ってくれるから」と返答してきました。そこで「勉強って、自分のためにするんじゃないの?」と聞くと、Nさんはキョトンとした顔をしてこう答えました。

「どういう意味ですか? 私の場合、成績が良ければ好きなものを買ってもらえるし、大学にも行けるだろうから、勉強しているのですが……」

この場合、親は「子どもに勉強をさせて良い大学に入れたい」、子どもは「勉強をすれば、好きなものを買ってもらえる」というサイクルの中で安定が生まれています。

実際、かつての日本の成長モデルの中なら、それでよかったのかもしれませんが、モデルが崩れたこれからはどうなるのか、やや心配になります。