我が家には、昔ながらの大きな仏壇がある。結婚した当初は、夫の実家に住む義姉一家が仏壇をみていたのだが、義兄が酒に酔って仏壇に当たり散らし、壊してしまった。それ以来、我が家で引き取ることに。

当時はマンション住まい。育ち盛りの子どもも3人いて、大きな仏壇は正直、場所塞ぎだ。かといって拒否もできない。大きすぎて玄関から入らず、ベランダから重機を使って引き上げたほどだった。

仏壇の件といい、墓移転の問題といい、夫の頼りなさに、腹が立つ。私にはすぐ怒鳴り散らすくせに、外面は別人。墓をめぐる裁判も、それゆえこういう結果になったのだろう。

 

死んだら自分の父母とともに

私の実家は遠方なので、両親のお参りもままならない。法事でもない限り、数年に一度行くのがやっと。それでもお墓の前で、線香をあげて手を合わせると、なんともいえない安堵感に包まれ、気持ちがほっとする。「墓」という場所が心を落ち着かせてくれるからだろうか。いや、両親の眠る場所だからに違いない。夫の家の墓参りではそんな気持ちにならないのだから。あちらの墓には知った人もいないし、移転してさらに遠い存在になった。

父の葬式では、子ども、孫、ひ孫たちが代わる代わる手を合わせる姿を見て、自分が亡くなったときに置き換えてもみた。こんなふうに皆それぞれ頭を垂れ、手を合わせてくれるだろうか、と。

つい最近までは、自分の死後、骨は適当に処分してもらえば、それでよいと思っていた。しかし父を亡くし、父の墓の前で線香をあげたとき、やはり、骨はしかるべき場所に埋葬し、「残された子どもたちが参る墓があったほうがよい」という気持ちがわいてきた。

それからは、自分が死んだら入るところは、生きているうちに納得できる場所を選んでおかなければ、という思いが強くなるばかり。やはり私の実家の墓がよいだろうか。父の納骨のときに墓守である弟に話してみたところ、あっさりと「ここに入れば」と墓を指さした。

実家の墓は、父が亡くなる前、弟が墓石を新しくしたばかりだった。震災で墓石が破損したのだが、被害者が多く、工事の順番が回ってくるまでずいぶん待たされた。石材店から「ようやく工事ができそうだ」と連絡があり、やっと新しくしたところに父が入ることになった。

そこには「○○家之墓」ではなく「ありがとう」の文字を刻んである。だから名字が違う私でもよいというのだ。墓には両親も入っているし、いずれ入るのも知った人だし、口約束にすぎないけれど、弟にはあらためて頼んでおいた。