終活セミナーは熱気にあふれ
先日、終活セミナーに参加した。なんでも定員の3倍も申し込みがあったとのこと。会場は高齢の参加者の熱気であふれていた。こんなにたくさんの人が、自分が死んだ後のことを模索している。相続や墓についての質問も活発で、あっという間の2時間だった。
私の隣席になった75歳の方は、自宅を処分し、遠方に住んでいた息子夫婦と同居を始めたばかりだという。代々の墓も永代供養をし、この先参るのはあきらめたそうだ。慣れない土地での、生活の大変さについて話していたのが印象的だった。
昨年、私は生まれて初めて大病を患い、手術をし、病床で苦しい日々を送った。このときほど、「死」を現実のものとして感じたことはない。退院したらすべきことを、天井を見ながら毎日考えていた。「断捨離」して身のまわりを軽くすること。「終活ノート」を書くこと。
とにかく私の意思を伝える術は必ず用意しよう。葬式は「ごく簡単に」とだけ伝え、あとは子どもたちに任せよう。でも、通帳の場所だけは、しっかり記しておかなくては。問題は、骨を埋めてもらう墓だ。
私の実家の「ありがとう」の墓に入るのはよいが、遠すぎるのが気がかりだ。子どもたちに新幹線を乗り継がせ、時間と旅費をかけさせては申し訳ない。というより、そのうち来なくなるに違いない。それも正直、ちょっと寂しい。でも両親のそばにはいたいので、分骨してもらって、あの墓に入ることにしよう。残りは樹木葬か、合同葬か──。もっぱらリサーチ中である。
ひとつだけはっきりしているのは、夫の実家の、あの山の上の墓は絶対おことわり、ということだ。
娘は、「お母さんの希望はわかった。任せて」と言ってくれた。その言葉を信じたい。知らぬは夫だけだ。
ああ、それにしても、死んだ後のことを準備するのは簡単ではない。そうしみじみ感じる、今日このごろである。