バッシングといじめの入り口は酷似している

夏の甲子園では、コロナで出場を辞退する高校もでました。その一つ、東北学院高校は1回戦の勝利後、感染者と濃厚接触者が出たことがわかり、2回戦を出場辞退しました。ただし、本当は出場できたケースです。というのは、疫学調査の結果、クラスターではなく個別感染と判断されたためです。大会側は2回戦に進むことを前提に準備をしていました。

辞退の理由は、「2回戦に出場するとなると、どの生徒が感染者なのか特定されてしまい、生徒のプライバシーの保護につながらない」というものでした。

高校を責めるつもりはありません。苦渋の決断であり、部員と教員の胸中は察するに余りあります。その生徒が特定され取り返しがつかないことが起きるかもしれない――「生徒のプライバシー」というオブラートにつまれた表現の中には、恐怖が座っています。

感染した者がいたわりの言葉でなく非難の言葉をあびるおそれがある。いまの日本はバッシング社会です。

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バッシングには、いじめの入り口と酷似しているところがあります。

いじめは、いじめる相手が必要です。いじめる相手が大勢では逆にやられるかもしれません。いじめる相手を特定する必要があるのです。その際に行われるのは、その人がいじめられるに値する理由をみつけだすことです。

どこかどん臭い、何か失敗した、などなどです。状況によって「綺麗すぎる」というのも理由になります。要するに、人とちょっと違っていることがいじめ心に火をつけます。  

「いじめ」を「バッシング」に置き換えてみてください。そのまま通用しませんか。