子どもを隔離することは解決にならない

ところで、人間という生き物は噂好きだそうです。最近読んだ『スマホ脳』には、人の会話の大半は自分の話と他人の噂と書かれていました。自分のことを話すことが好きで、他人のことも気になって仕方ない。私たち人間は押しも押されもせぬ社会的動物です。

何年か前、いじめのあまりの悲惨さから、解決策として子ども一人ひとりを隔離したらどうかという提案も行われましたが、現実には幻想です。隔離して接触を絶てば、子どもは人間という社会的動物であることを止めることになります。

私たちの噂好きは仕方ないとして、ひそひそ話の噂話が、いじめやバッシングにならないような道が必要でしょう。それはさきほどのPR作戦への対抗策から考えれば、噂の対象である人が仮にひどい性格だとしても、やはり自分と同様に尊厳をもってうまれた人間であるという、その人へのリスペクトのさいごの一片を失わないことではないかと思います。その一片が失われたとき、噂は攻撃のスイッチをおしてしまいそうです。

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そんなことを考えていたら、ニュージーランドのアーダーン首相を思い出しました。彼女は、コロナ禍に際して国民に「親切であれ」と呼びかけた指導者です。

“Be strong, be kind. We will be OK.” (強くあれ、親切であれ。そうすれば私たちは大丈夫)は有名ですが、それ以外でも「親切であれ」がよく使われているといいます。コロナで人々の安全がおびやかされているとき、噂話はいじめやバッシングになりやすく、そういう社会はコロナに脆いものです。それを防ぐ言葉に聞こえました。

「親切」の先には、自分以外の他者がいます。他者へのスタンスを「無関係」や「監視」でなく、「親切」におくことは、自分たちも助かりたい危機に、「他者もまた人間である」と一呼吸いれることになります。親切は、噂話の好きな人間が同時にかねそなえている、難局をのりきる知恵なのかもしれません。

夏の甲子園では、クラスターでない陽性者を出した高校がもう一つありました。その高校は話し合い、2回戦出場を選びました。それはそれで良き選択です。ただし、東北学院高校の選択とどちらがいいか比べることは必要ありません。必要なのは、バッシング社会を少し親切の方向に動かしていくことですから。

コロナ禍に発せられた言葉「親切であれ」が、「この世の中にいじめられていい人間は一人もいない」というシンプルな考えを遠くからでもしっかり支えている。そんな世界に私たちは生きています。

注1 文部科学省「コロナ禍における児童生徒の自殺等に関する現状について」(2021年)
注2 その後の8月27日、文部科学省は「判明した感染者が1人でも、感染状況によっては、原則として当該感染者が属する学級等の全ての者を検査対象の候補とすることが考えられる」と、クラス全員のPCR検査を認める通知を出しました。
注3 「いじめの政治学」1997年。この論文を子どもでも読めるものにしようと企画された書籍に、筆者もかかわった、中井久夫『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中央公論新社)があります。