久里子さん4歳、父・十七代中村勘三郎さんとの初舞台で(1950年「十七世中村勘三郎襲名披露新春大歌舞伎」)

──川口松太郎さんを唸らせたお雪やお久のうまさは評判で、後年、いろんな若い俳優が教えを乞いに。

波乃 お久は、染五郎時代の今の幸四郎さんが、父の勘三郎と親子の役のときに教えました。それから松たか子ちゃんは、弟の勘三郎と親子の役でしたね。お雪は、中村福助さんとか坂東新悟さんとか、ずいぶんお教えしています。だって、私はみんなパパ直伝でしたからね。

『文七元結』には、お久が吉原の角海老の奥座敷で五十両というお金を父親に手渡すところがあるでしょう。これを持って行ってもう博奕なんかに手を出さないで……と「いいかい?」「あいよ」「いいかい?」「あいよ」「いいね?」「あいよ~っ」というところ。パパが私の手をギュッとして、間の指示を出すんだから、いい間のはずですよね。

そうそう、パパの長年のお弟子の小山三(こさんざ)。お茶をひいてるお女郎の役が持ち役なんですけどね、この人が出るといかにも大晦日の吉原。それを新橋の芸者さんの小喜美さんが句にして、「小山三で角海老賑はふ初芝居」、素敵でしょ。

──新派での初舞台は泉鏡花の『婦系図(おんなけいず)』で、令嬢妙子の役。のちには主人公お蔦が持ち役になりました。

波乃 新派はこの妙子の役者を探していて、それで私に川口先生の白羽の矢が立ったわけだけど、そのとき私は16歳。水谷八重子先生は、最初、勘三郎の娘を弟子に取ることに難色を示していらして、パパが絶対口出ししないという条件で弟子入りを許されました。しましたけどね、口出し(笑)。

そのときの『婦系図』は、お蔦が水谷先生で、早瀬主税が花柳章太郎先生。妙子の生みの母親、芸者の小芳は市川翠扇先生でした。それで舞台稽古のとき、私がお蔦の家の格子戸を「ごめんください」ってこう、科を作って開けたら、花柳先生が怒鳴る。「妙子は踊りみたいな下品なものは習ってないんだ。令嬢は茶の湯か琴だろ?」って。水谷先生は何もおっしゃらない。「今にわかるからいいのよ」って。もう両極端でしたね。