──『大つごもり』のお峰はその後、久里子さんの当たり役となり、菊田一夫演劇賞を受賞しました。当たり役といえば、『明治一代女』の叶家お梅も。芸者のお梅が歌舞伎役者の沢村仙枝に貢ぐために箱屋(芸者の付き人)の巳之吉から借金し、ついに殺す羽目になります。
波乃 私、大好きです、このお芝居。弟と甥に褒められました。甥(六代目中村勘九郎さん)が小学6年くらいのとき、新橋演舞場に観に来て、「マロン!」──私、クリコだからね──「ヴィスコンティの世界だね」って。浜町河岸の銀世界の中でくり広げられる殺しの場面がそう見えたんでしょうね。
そしたら弟の勘三郎もあとから観に来て、「なんだ、ビスケットかよ」なんて言いながら、「お姉ちゃま、これは一生の仕事だよ、お姉ちゃまのものにしたほうがいい」なんて。あの人は水谷先生のお梅を観てないですからね。(笑)
──『鶴八鶴次郎』は、新内語りと三味線弾きの2人が、好き同士でいながらついに結ばれない。鶴次郎役は十七代、十八代勘三郎さんの当たり役でしたが、久里子さんは肉親なので相手役に回れませんでしたね。
波乃 そうです。パパの相手は初代の八重子先生で、弟の相手は今の八重子お姉ちゃま。私の鶴次郎さんは十二代目市川團十郎さん。だ~い好きな人だから嬉しかった! でも團十郎さんは新内語りじゃなくて義太夫語りみたいな人。江戸っ子のポンポンした喧嘩じゃなくて、モタモタした喧嘩(笑)。好きな人とやっていると照れちゃって、素の波乃久里子に戻っちゃうから駄目でしたね。
──團十郎さんとは『日本橋』『婦系図』ほか、ずいぶん新派で共演なさってます。
波乃 『滝口入道の恋』のとき、作者の舟橋聖一先生が横笛の役を私に、って指名してくださった。この芝居は戦後間もなく、初代猿翁(二代目市川猿之助さん)とうちの八重子先生が初演して、花道の、扇でかくしたキスシーンが大評判になって2ヵ月ロングランになった、というもの。それを私が大好きな團十郎さまと共演となったから、舞台で泣くわ鼻水は出すわで、大変なことになっちゃった。
そしたら休憩のときにママが飛んで来て、ママは六代目(尾上)菊五郎の娘だから、自分がこんな酷い女優を産むはずがない、と思っている。「今日の切符代とお弁当代をお客様全員に返す」って泣き喚いてました。私もわんわん泣いてパンダみたいな目になっちゃいました。隣の部屋で團十郎さまも聞いていて、「怖いお母さんですねぇ、今日はうちに泊まりにいらっしゃい」って。離れがありますからね。行きませんでしたけど。(笑)
──『婦系図』には「月は晴れても心は闇だ」とか「別れろ切れろは芸者のときに言うことよ」とか、名台詞がたくさんあります。
波乃 私はずうっと妙子役だったんですが、吉右衛門兄さんの主税で私がお蔦のときの話。そのころの芸者の粋で伝法な言い廻しで、「ください」「……じゃありませんか」を「くだはい」「じゃんせんか」というのが流行ったんです。こういう言い廻しって、自分の血となり肉とならなくちゃ自然な調子にならない。
八重子先生が、「死ぬまでできないわ」とおっしゃったので、「先生、簡単ですよ。くだはい、じゃんせんか」って私が言ったら、プッとお笑いになった。それで吉右衛門兄さんがお蔦の私に、楽(千秋楽)の3日前くらいだったか「くだはい、じゃんせんか、やってみろよ」って。
それで私がふんだんに使っちゃったら、幕になった途端、吉右衛門兄さんが笑い転げて、「もうやめろ、やめろ」って。先生さえ何十年もかかってできなかったのに、芸を舐めちゃいけない。
──『婦系図』に杉村春子さんが小芳の役で出演したことがありました。
波乃 八重子お姉ちゃまがお蔦で私がまた妙子。私は言わば妙子のベテラン。それを杉村先生は文学座からいらして最初の小芳なのに、毎日ダメ出しなの。「その着物、違うわ、妙子じゃないわ」って。それで松竹の衣裳部に探しに行くんだけど、いつも「違うわ」って。それで楽の前の日、自前を持って行ったらやっとオーケーが出た。先生にとって新派も新劇もない、演劇は一つ、ってことでしょうね。
有吉佐和子さんの書いた『華岡青洲の妻』は、杉村先生が青洲の母・於継で、私が青洲の妹の小陸。そのときのダメ出しもすごかった。於継が死んでから幕まで20分くらいあるのにずうーっと私を待ってくださって。小陸のダメ出しを1時間くらい。だから私は杉村先生に育てられたのかもしれない。八重子先生は何もおっしゃらない方だったから。
あのときは、父の勘三郎が青洲で、八重子先生が妻の加恵。当時、ママがまず有吉先生の本を読んで、「これ、パパがやったら?」って。パパもその気になったら、八重子先生が、「勘三郎さんは台詞を憶えないから無理」っておっしゃったの。それを聞いて父は、丸暗記しましたね。本読みのとき、台本置いてそらで言っていましたから。やっぱりパパの役者魂ってすごいと思う。