『自転しながら公転する』(山本文緒:著/新潮社)

【選評】

「王道の作家」 浅田次郎

地球は秒速465メートルで自転し、秒速30キロメートルで公転しているらしい。

まあ、それはよい。目が回るわけでもなく、気分も悪くはならず、実感は何ひとつないのだから驚異であっても脅威ではなかろう。

問題はその地球の上で、おのれが1日5000歩の目標を掲げて散歩をしている、という現実である。

歩幅を70センチメートルとしておよそ3500メートル。しかし目標達成は稀であり、気候条件、体調によってはほとんど歩かぬ日も珍しくない。

そしてさらに疑うらくは、その歩みの速度が「時速」4キロメートル以下なのである。

すなわち、宇宙の原理に比すれば誰彼にかかわらずまこと瑣末な人間の営為を──むろん作者自身も含めた普遍的な人間の営為を、悩みながら苦しみながら描かんとした小説が、『自転しながら公転する』であろうと思う。

そのように考えれば、この作品世界を被う宇宙的な不安感やのっぴきならぬ不均衡さが、むしろ必然の要素として腑に落ちるのである。だとすると作者は、登場人物とともに苦悩する、文学の王道を歩んでいるのかもしれない。

ところで、山本文緒氏は作中における時制の転換がうまい。現実から過去へといつの間にか場面が移り、またいつの間にか翻って戻る。この自然な二層性によって物語の厚みが増す。いわゆる「時間のロマネスク」である。

では、自転も公転もなるたけ考えぬようにして、これより散歩に出る。時速4キロメートル。暑いので距離短縮。

 

「魔術のようなドラマ」 鹿島茂


『ボヴァリー夫人』に始まる近代文学最大の発見は、最もありふれた環境におかれた最もありふれた人間の最もありふれた心理の中にこそ最高のドラマが存在するということでした。

『自転しながら公転する』はこの意味で近代文学の王道を歩んでいることになります。実家のある地方都市に舞い戻ってアウトレットモールで働く32歳の契約社員が主人公で、親の介護、職場の人間関係、いまひとつはっきりしない恋人の気持ちなどが悩みの種という日常ですから、「最もありふれた環境におかれた最もありふれた人間の最もありふれた心理」のモデル・ケースといえます。では、果たしてこの枠組みの中から最高のドラマが生まれたのでしょうか? これが見事成功したのです。魔術としかいいようがありません。

魔術とは、どうでもいいような凡庸な会話を連ねていきながら、その凡庸が冪乗化されるとまったく凡庸ではない物語が生まれてくる構成力を意味します。まさに「自転しながら公転する」なのです。

ですから、あとから付け加えられたプロローグとエピローグは必要なかったのではないかという意見が出ましたが、どうでしょう?

たしかに冪乗化されたことによって凡庸が凡庸でなくなるという凄みは減じたかもしれませんが、私はむしろ山本さんに劇作家でもやっていけるようなドラマツルギーの才能を感じました。

これからどんな方向に変化していくのか、次回作が楽しみです。