変わり果てた神戸を見て

西村は、自分のよく見知っていた地元・神戸が変わり果てた姿になっていることに強烈なショックを受けたという。

神戸港震災メモリアルパーク。大震災の爪痕がそのまま残されている(写真提供:写真AC)

「テレビ画面に映りきらない規模の大きさっていうんですか、西宮から三宮までの物理的な距離が全部壊滅的な被害を受けているのをみて、暗澹たる気持ちになったことを今でも覚えていますね」

僕自身は八尾空港以降の動きをほとんど覚えていないのだが、当日だったか翌日だったか、神戸市の中心部に向かう途中の車窓からの光景があまりにも超現実的で、こんな光景が実際にあること自体が信じられない気持ちだった。

三宮駅前のスバルビル(この名称も不確かだが)の窓という窓からブラインドカーテンがクラゲの足みたいに飛び出ていて、グロテスクな姿をさらしていたという記憶がある。その頃、神戸市の長田(ながた)区ではすでに火災が発生していた。当日は、筑紫さんの神戸上空からのヘリ空撮リポートを持ち上がりMBS(毎日放送)本社から中継したとの記録が残っていた。細かな行動の記憶が飛んでしまっている。

「僕はもうテレビをやめようと思っている」

当時つけていた日記の記載によれば、1月17日に現地入りした僕は1月29日に自宅に戻っている。その日、こう書いていた。

〈今回の取材ほど後悔の残るものはない。〉

同じ思いを筑紫さんも抱いていたに違いない。その日の夕方、ある場所で僕は偶然にも筑紫夫妻と遭遇し、そのまま夕食をともにすることになった。筑紫さんは相当に苛立っていた。そしてその場でこう口にした。

「僕はもうテレビをやめようと思っている」

それは本音だった。本当にそう思っていた。すでにその頃は筑紫哲也といえば、日本を代表するテレビニュースの顔だった。だがその矜持(きょうじ)というか自信が揺らいだのだ。