温和な筑紫さんが怒鳴り声をあげて

今から冷静になって考えてみれば、阪神淡路大震災という出来事があまりにも巨大で、筑紫さんのやれることは限られていた。

普段はとても温厚だったという筑紫さん。当時の書斎にて。「中央公論 1992年8月号」より

筑紫さんはもともと、切ったはったの事件記者的な仕事が適任とは言い難いところはあったが、それでも戦場取材もこなしてきた経歴があった。だが、阪神淡路大震災の場合は、テレビというマスメディアのなかの一個人は圧倒的に無力であった。そのことを自覚していたが故に、現場では一人ひとりの被災者の声を丁寧に拾い歩くことに徹しようと思うと宣言してそれを実行した。

だが実際に限られたテレビの時間の中で放送されたものは、切り刻まれた断片でしかなかった。取材した現地と編集する東京との間の温度差や切迫感の違いもあっただろう。

現地入りして3日目の深夜のことだ。『23』のオンエアが終わった瞬間に、あの普段は温和な筑紫さんが、MBS本社のフロアの片隅で「君たちはわかっていない!」と怒鳴り声をあげた。被災者の声をそれこそ地べたを這うように歩き回って集めてきたVTRが東京で編集された中身をみて怒り狂ったのである。

それ以外にも、スタッフ同士の激しい衝突や、神戸組と東京組のぎくしゃく、TBSとMBSとのぶつかり合いなどが幾度となくどこかで起こっていた。

※本稿は、『筑紫哲也 「NEWS23」とその時代』(講談社)の一部を再編集したものです。

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「筑紫哲也『NEWS23』とその時代」(著:金平茂紀/講談社)

在りし日の筑紫哲也の姿を間近で見ていた著者が、関係者への膨大なインタビューをもとに振り返る。「頭をあげろ!」。世の中が混沌とする今だからこそ、筑紫の生き様はいっそう胸に響く