新聞記者時代の筑紫哲也さん。当時40代(写真提供:講談社)
1989年から2008年までTBS系列で放送された報道番組、『筑紫哲也 NEWS23』。骨太でいて、自由なその報道スタイルは、戦後テレビジャーナリズムの金字塔と言われます。18年半にわたる放送期間の中では、1995年1月の阪神淡路大震災も起きています。取材のため、急ぎ現場に赴いた筑紫さんたちが見た光景とは。番組の編集長を務めたジャーナリストの金平茂紀さんが振り返りました。

阪神淡路大震災の起きたあの日

さすがに夕方近くになると冷え込んできて、体の芯から震えがきた。2015年1月17日。この日、僕は、担当している『報道特集』の生中継のために、神戸市中央区の東遊園地にいた。

阪神淡路大震災から丸20年を迎え、そこでは終日、犠牲者を追悼する営みが続いていた。竹筒に包まれた 燭に火が灯された「竹灯籠」が広場の中央部に多数設置され、その周囲を取り囲むように参列者たちが祈りを捧げる姿は、おごそかな雰囲気を周囲に醸し出していた。

あれから20年がたった。あの日、『筑紫23』のデスクだった僕は、早朝の電話で大震災発生を知り会社へと急行した。局に着いて、テレビ画面を凝視していた。高速道路が蛇行して崩落し、各地で火の手があがりはじめていた。いずれも空撮映像だったように記憶している。

これは大変なことになった。キャスターである筑紫さんには、今日の出演は東京のスタジオからではなく関西から出てもらおう。できるだけ早く現場で取材してもらわなければならない。すぐさまそう確信した。

辻村國弘プロデューサーと相談して、とにかく航空機かジェットヘリで現地入りしよう、選択肢のなかでは自衛隊ヘリに同乗するのが一番早いのかな等々と思案しながら、赤坂の筑紫さんの自宅に迎えに行った。

筑紫さんも早朝からテレビをみていた。現場に行くことに躊躇はなかった。

「どんな服装で行けばいいかな。いつものコートでいいよな」

筑紫さんはそう言った。

「いいと思いますよ」

わざとらしく防災服のような格好で現場入りすることに抵抗感があったことを僕は記憶しているが、このことが後日意外に大きな問題に発展するとは思いも寄らなかった。何しろ20年前のことだ。人間の記憶というものは確実にぼやけてくる。この20年以上にわたって記してきた日記も、1995年の1月17日から1月20日までの4日間は空白になっていた。