新聞社に在籍していたころの筑紫哲也さん(写真提供:講談社)
1989年から2008年までTBS系列で放送された報道番組、『筑紫哲也 NEWS23』。骨太でいて、自由なその報道スタイルは、戦後テレビジャーナリズムの金字塔と言われます。しかし18年半に及ぶ放送の中で同番組は何度となく「危機」を迎えました。なかでも、キャスターの筑紫哲也さんが「最大の危機」と言ったのが1991年の大手証券会社損失補填事件です。当時はバブル経済が崩壊した直後で、証券会社や銀行の不祥事が次々と明るみに出ていました。メディアも金融業界を鋭く批判していたわけですが、実はTBS自身もかかわっていたことがスクープされ――

「反主流派」だった筑紫哲也さん

「君臨すれども統治せず」「何でもあり」「拒否権なし」といった一種のスローガンのような言葉は、筑紫さんが『23』の定例会議でよく口にしていたモットーだ。

このうち「君臨すれども……」については、筑紫さんが30年間在籍した朝日新聞社での政治部・外報部記者時代の経験や『朝日ジャーナル』編集長時代を通じて培われた人生哲学のようなものだったのかもしれない。いや、それ以前の筑紫さん自身の性格から導き出された生き方そのものだったのかもしれないが、真実は本人のみぞ知る。

言葉面だけで解釈すれば、「君臨すれども……」は、組織力学においては、強いリーダーからのトップダウンで全体が動いていく方式ではなく、現場に近い下からのボトムアップで動くスタイルである。

まだ筑紫さんが朝日新聞に在籍し、政治部の記者をしていた70年代には「官邸・政党にあらずんば政治記者に非ず」(つまり、首相官邸か政党をカバーしていないような奴は政治記者としては到底認められない)という気風が強く、政治部では「三浦タコ部屋」といわれていたように、故・三浦甲子二(きねじ)氏が絶対的なボスとして支配力をふるっていたという。

そのなかでまだ若輩の筑紫さんは「反主流派」だったそうだ。「タコ部屋」に頻繁に出入りして、君臨する人に擦り寄る器用なタイプとはちょっと違っていた(当時の政治部の先輩、中島清成氏にお会いしてうかがった談による)。

『朝日ジャーナル』編集長時代も、編集業務の多くを下に任せて本人は行方不明というようなことがよくあったそうだ。編集長が、である。遊牧民タイプというか地中海型というか、とにかく定住農耕民型ではない人だったことは間違いない。