『筑紫哲也 NEWS23』が始まってしばらく、当時50代の筑紫哲也さん。『中央公論』1992年8月号より
1989年から2008年までTBS系列で放送された報道番組、『筑紫哲也 NEWS23』。骨太でいて、自由なその報道スタイルは、戦後テレビジャーナリズムの金字塔と言われます。番組内では「がんを生き抜く」というシリーズで、それまでの報道と違う角度からがんを取り上げ、多くの反響を得ていました。しかし2007年春、キャスターの筑紫哲也さん自身に肺がんが見つかると、症状は徐々に悪化していき…。闘病の日々を、番組の編集長を務めたジャーナリスト、金平茂紀さんが振り返りました。

鹿児島での最後の4カ月

筑紫さんは、症状の悪化とともに『23』に出演を続けることは事実上不可能になっていく。つまり復帰は絶望的になっていったのだ。2008年3月28日が、『23』最後の出演日となった。

からだは当時もうボロボロの限界状態だったことが、筑紫さん本人が書き残した「残日録」というノートから読み取れる。

筑紫家の家族にとってみれば、筑紫さんが闘病に入って以降、ある意味ではとても濃密な時間をすごすことになった。房子さんはこう述べている。

家族が一緒にすごせた最後の4カ月は、私だけでなく子どもたちにとってもかけがえのないものになりました。いま振り返れば、あれは神様がくれた時間だったんだなあ、と思います。 ―『週刊朝日mook 筑紫哲也 永遠の好奇心』(朝日新聞出版)

房子さんの言う「最後の4カ月」というのは、鹿児島の病院での闘病生活のことをさしている。この病院へは、筑紫家とも親交のある女優の樹木希林さんの勧めによって移ったのだった。この頃、筑紫さんの病状は末期に近いものになっていた。

樹木さんは、鹿児島の病院にお見舞いに行った時のことを今でもよく覚えているという。

「『いいご家族で幸せね』って言ったら、筑紫さんがね、『いやあ、慌ててつじつま合わせをやってるんだよ』って例の笑顔でね、仰ってたわ」(2013年4月30日、樹木さんとの面談での発言)