「パパ、東京に帰りたい?」って聞いたら「うん」と
次女のゆうなさんも、鹿児島での思い出を語ってくれた。
「あんなに家族が一緒にいたことは初めてだったんじゃないですか。だから、最初は何だかすごい、ぎこちないところもあって。急にやさしくし合うのもね。何かを待ってるみたいでしょ。でも最後の最後に良さが出てきて。私たち家族も、父の闘病がなかったならば、結束は固いんだけれど、普段は自由人だから。父のおかげでひとつになった。初めて全員がメンバーになった」
房子さんは疲労困憊して動けなくなったこともあった。房子さんが当時の思いを語ってくれた。
「日に日に体が弱っていく。ある日、パパが鏡で自分の顔をみて、不安でしようがなくなっているのがわかったのね。私、ふと、鹿児島の病院の屋上に上がったのね。そしたら夕焼けがとっても綺麗で、ああ、このまま誰も知らない鹿児島でパパが死んでいいのかなと思って、病室に降りて行って『パパ、東京に帰りたい?』って聞いたら『うん』と言ったの」
筑紫さんは体力の許すギリギリの段階で(2008年10月28日)、東京に空路戻って、羽田空港から聖路加病院にそのまま入院した。11日目、筑紫さんは永眠した。聖路加病院で意識が混濁する中、意識が一時的に戻って「ノートを早く持ってきて!」と言って筑紫さんが最後に書き記した文が残っている。英語で「Thanks You」。
「それまでありがとうとか何も言わなかった父の最後のことばがこれだったんですね」(ゆうなさん)
「死ぬ前の最後のことばがありがとうと言えるような人生はすばらしいなと思いました」(拓也さん)