ずいぶん前に、瀬戸内さんの周囲で親しい方が亡くなったのか、夜遅くに突然電話をかけてきて、「人間、死んだらどうなるの?」なんて聞いてくる。僕が「生きている時と変わらないんじゃないですか。生きている時の想念がそのまま向こうで具現化するわけだから」と答えると、「アラ嫌ね、無になりたいわね」とおっしゃる。
「そりゃダメですよ。向こうに行って無になるには、生きている間に無にならなくては」と意地悪く返すと、「まあコワイ、コワイ。じゃあね」ってガチャン。(笑)
51歳で出家された瀬戸内さんのことは、〈死者友〉と思っていました。出家とは生きながら死ぬこと。僕はかつて3人の霊能者に「50歳で死ぬ」と言われたことがあり、それ以降の人生は死者として生かされていると思ってきた。
そもそも僕は、生から死を見ることに興味がなくて。自分が死んだと仮定し、死の側から生を描くのが創作だと思う。
お互いを鏡のように観察
小説家は生にまつわるくだらないことを小説にするわけですが、その背景にはつねに死が張りついているからこそ、業が深い。なかでも瀬戸内さんは業を吐き出すことで創作を進めていく人だった。自分に起きた出来事を、自分のなかに納めておくことが瀬戸内さんはできませんでした。
井上光晴さんをはじめ男たちとの恋愛も、すべて小説にして社会に公表してしまう。そうして男女の不透明な部分を露出することで、どこか「浄化したい」という気持ちがあったんじゃないでしょうか。しかも自分がメディア(媒介)となり、社会を巻き込んで。