遁走、幻視、暴言に体がついていかず
それは、今まで見たことのない母の姿でした。いつもきれいな言葉で話していたのに罵詈雑言を吐く。主に私への悪口です。仕事で遅く帰ると、「年寄りの私を、なんでこんなに放っておくのか!」と責める。「私はいじめられている!」と怒鳴り、「こんな家にはいたくない」と出て行こうとする。
外に飛び出して「人殺し!」と叫ぶこともありました。家具を倒し、椅子やまわりの物を手当たり次第に投げつける。まるで映画の『エクソシスト』みたいでした。
「こうなりたい」と、憧れの存在でもあった母の激変ぶりを、私は受け止めきれなかったのだと思います。認めたくない一心で、私自身も体調を崩すように。病院での診断は、パニック障害と過呼吸。過度のストレスが原因と言われました。
何をどうしていいかわからなくて、元民生委員だった知り合いに藁にもすがる思いで連絡をし、状況を打ち明けました。そうして生まれてはじめて区役所の地域包括支援センターを訪ねたのです。
要介護認定を受けることになったものの、調査の方がいらっしゃると母はしゃんとした態度でハキハキ答え、「何でも自分でできます」と胸を張ります。結局、認定結果は現状にそぐわない「要介護1」となり、私は呆然としてしまいました。
夜中に家を飛び出すのも、徘徊なんていうものじゃない。母の健脚ぶりは、私が追いつけないほどで、「遁走」と言ったほうがピッタリでした。それが、ほぼ毎日。私は母の寝室のドアの前に布団を敷き、すぐに追いかけられるようにと、外出着のままで寝るようになったのです。
幻視の症状もあらわれるようになりました。お風呂から飛び出した母は、「怖いものが来る」と言ってブルブル震えます。聞けば、窓の向こうにソ連軍の戦車が列をなして侵攻してくるのが見えるのだと。それは終戦後、私たち母娘が旧満洲の奉天(現・瀋陽)から引き揚げるときの光景として、よく聞かされていたものでした。
「外套を着て軍靴を履いた人たちが何か相談しているから、110番して」と叫ぶこともあり、110番をするふりをしながら、こんな日がいつまで続くのか、と絶望的な気持ちになりました。
それまでの私は、母にとって「かわいいトモ子ちゃん」でした。「こうしたらいいんじゃないの」とアドバイスするのはいつも母のほう。それが認知症の症状が出て以降、「あれやっちゃいけない」「それはダメ!」と私が怒鳴ることが多くなっていたのです。