「母は年を重ねても、背筋はまっすぐ、凛として、言葉遣いは美しく、娘バカと言われそうですけど、『年をとることは怖くない』と思わせてくれる素敵なレディでした」(撮影:藤澤靖子)
2022年2月18日の『徹子の部屋』のゲストは松島トモ子さんです。松島さんは、2021年10月6日、自身のブログで、その2日前に最愛の母が100歳で亡くなったことを明らかにしていました。4ヵ月経った今も「寂しい」と語っています。2016年春から母の異変が始まり、5年間壮絶な自宅介護の末見送った松島さん。介護4年目、「ようやく隠すことなく語れるようになった」という心境を語った『婦人公論』2019年4月23日号のインタビューを再配信します。

*******
松島トモ子さんは4歳で映画デビューして以来、母・志奈枝さんと二人三脚で芸能活動を続けてきました。母が95歳になって認知症を発症し、一時は親子心中が頭をよぎるほど、心身ともに追い詰められたといいます。(構成=福永妙子 撮影=藤澤靖子)

95歳の誕生会でのショックな出来事

母はとてもおしゃれで、90代になっても、外出するときはスーツにハイヒールでした。商社勤めの祖父は海外赴任が多かったため、娘時代は香港でイギリス系の女学校に通い、ペニンシュラホテルで社交界デビューしたそうです。お洋服も朝、昼、晩で替えるようなお嬢様育ちでした。

父は終戦後、生まれた私の顔も見ないままシベリアで病死しました。父を知らない私ですが、寂しいと思ったことがないのは母のおかげ。子役の仕事を始めてからは、「松島トモ子」の統括プロデューサーのように、常にそばにいて支え続けてくれたのです。

年を重ねても、背筋はまっすぐ、凛として、言葉遣いは美しく、娘バカと言われそうですけど、「年をとることは怖くない」と思わせてくれる素敵なレディでした。「トモ子ちゃんの立派なお葬式を出してから私は死ぬ」が口グセで、母を知るみなさんも、「うん、そのほうがいい」と納得。そのくらい、しっかりとした人だったのです。

そんな母に認知症の症状があらわれたのは、2016年の春のことでした。痛めた手首に巻いた包帯を、すぐにとってしまう。ギプスに替えてもらったものの、それも切る。装着し直すために病院に連れて行くのですが、それが1日に2度、3度と重なって。困って家中のハサミを隠すと、今度は包丁で切ろうとします。

その時期、私はコンサートやミュージカルの舞台で多忙を極めていました。いつも仕事を応援してくれている母が、なぜ私をこんなに煩わせるのか不思議に思うと同時に、腹立たしくもありました。ただ、このときは、おしゃれな母はギプスがイヤなのだろう、くらいに受け止めていたのです。

「これはおかしい」と決定的に感じたのは、5月に中華料理店で開いた母の誕生会。本来の誕生日は2月ですが、寒い時期ですし、お招きする方たちの都合もあり、時期をずらして祝うことになったのです。

その席で、母はいつもの母ではありませんでした。人の話をまったく聞いていない。ひたすら料理を食べ続ける。親に言う言葉ではないかもしれないけれど、まるで“餓鬼”の姿そのものでした。ふと、ずり上がった母のスカートを直そうと手をのばしたとき、真っ青になりました。失禁していたのです。母を気遣うことよりも、その場をどう取り繕うかで頭がいっぱい。このときを境に、一気に症状が出始めました。