手芸の得意な花子さんが、今年編んだひな人形

大助 僕は〈看板〉になるための計画を、1年、3年、5年、7年、9年、11年単位で立て、ひたすら漫才のことだけ考えた。それがプロだと思っていたし、「君も僕の相方なら、プロだろう」という理屈で嫁はんに迫る。でも嫁はんは満足に子育てもできないわけで。嫁の立場、妻の立場、母の立場、相方の立場……全部一人でせなあかんかった。いまならはっきりわかります、女の人の大変さが。

花子 私は大助くんの言う通りに練習してただけ。そのころはやりたくてやってる感じでもなくて。たくさん賞をいただくようになった9年目のころ、自律神経失調症で入院して、翌年胃がんがわかった。

大助 強いストレスの日々が、胃がんや今回の病気に繋がったんじゃないか。そう思うと後悔しかないです。もしいま、僕が嫁はんと新しくコンビを組むなら、宮川花子の天真爛漫で、朗らかで、なにも考えてないような姿をそのまま舞台に出すことを考えるね。

花子 まあいろいろあったけど、いまとなっては「漫才やっててよかったなあ」と思うよ。入院してるときも、「漫才をやる」という希望があった。これは大きなおみやげや。「元気になったらお仕事しましょう」とか「花ちゃん、待ってるからね」と声をかけてくれる人もいる。

私は「相方が他人やったら」なんて想像したこともないけど、相方が他人のコンビは、病気をしても復帰が早い。相方さんの生活があるから。多少無理してでも出るかもしれない。そういう意味で、大助くんに甘えさせてもらってるなとは思ってます。

大助 嫁はんは、わが家の看板娘で経営者で番頭さん。ましてや、金のなる木や(笑)。僕は嫁はんが元気になったら、舞台で立とうが座ろうが漫才をやりたい。でもいまは「漫才のネタの話を私にするか?」って状況やからな。

花子 私も、退院したらすぐにでもなんばグランド花月のセンターマイクの前で漫才ができるものだと思ってた。ところがどっこい、なにごともそう一足飛びにはいかないもんや。まだ物もうまく持てないし、服も着られない。

車椅子で病院の外に出てみてはじめて、みんなと視線の位置が違うことを知って「ああ、自分は障がい者なんやな」とも思った。先のことについては、やっぱり「あわてず、あせらず、あきらめず」の気持ちでいきたいと思ってます。