「ああ、万事これで終わったのだ!」

第一予選は、スタートから始終楽な気持で、オリンピックの檜舞台で走っているような気持がちょっとも湧かぬくらい、楽な勝負でした。二等のカナダと三メートルくらいも差をつけて、十二秒八で一着になりました。日本人の応援団席から、
「ジャパン! ヒトミ! ヒトミ!」
の声が一斉に起る。日の丸の小旗が美しく打振(うちふ)られる。その喜びの声のおさまらぬうちに、私は他のレースも見ないで、自分の控室に帰って来ました。

第二予選までの間が一時間です。ゆっくりマッサージをして貰って、しばらく仰臥(ぎょうが)して気をおちつけました。私は一時も早く第二予選の組合せが知りたいと思いました。第一予選に通った人たちの記録は、十二秒八が四人、十二秒六が一人、十三秒が二人で、割合に立派なレコードはまだ出ていません。

ドイツの選手が一人、第一予選に落ちて泣いている。負けて泣くのは日本の女学生だけではない、ドイツ人も泣くのだから……だが、あまり泣くので私も一言なぐさめて上げました。

「泣かなくてもいい、まだ三人も残っているのだから」

いよいよ準決勝に五分前になった。グラウンドにあらわれると、世界女子スポーツ連盟の会長マダム・ミリアット(この人は瑞典の大会で私に名誉賞を下すった人)が私のそばに来られるなり、挨拶する間もなく、

「おお、ミス・人見」

というなり、頬にキスをされました。いつも

「しっかり走れ、しっかり走れ」

といって、母親のように優しくいたわってくれる人です。

いよいよ召集が始まりました。第一組にはユンカーもいない、私もいない、佛のラジドゥもいない。第二組には、真先にユンカーと呼ばれた。次がカナダ、次が私、その次がアメリカのロビンソン、その他にもう二人、六人の名前がそろいました。私は胸の中からからだ中が冷たくなったような気がしました。第二予選から人もあらうに、ドイツ、アメリカ、カナダの、皆ナンバーワン組になるなんて、よくよく運が悪いと思った。しかし、アメリカ、カナダ、ともて何の事があろう、ドイツのユンカーとても自分と伯仲(はくちゅう)ではないかと、自分で自分の心をはげましながらスタートにつきました。

私はユンカーの右一つ隣の第三コース、一回のスタートやり直して、第二回は気持よく駆け出しました。私は、五十メートル、六十メートルと、ただ一人、前方に人をおかずに、気持のいいスプリンドでゴールに向ったのです。七十メートルあたりで、急に私の左の方に真赤なパンツが見えました。「カナダだな」と思ったが、まだ私の前方へは行かない、ユンカーはまだ後だ、……と思っていると、八十メートルあたりまでカナダと並行した私は、見る見るうちに追い越された。カナダ一人と思ったのが大きな失敗、カナダのすぐ左にアメリカの選手がいる。――もう一メートルにも先に走っている。ユンカーもそろそろ追い抜きがけていました。

九十メートルあたりまでおさえていたユンカーにも抜かれて、第四番目にゴールに入りました。カナダの選手がよろこんで手を高く差上げながら、控室の方へ走って行く。アメリカの選手がカメラの前に立っている。私はもう頭がぼんやりしてしまって、スタートのところにあるベンチに腰をおろして、じっと自分の足をみていると、二年間苦しんだ陽やけした皮膚に汗が流れています。

「ああ、万事これで終わったのだ!」

控室に帰ってきても、ただぼんやりして、あまりにも痛々しく負けた先刻(さっき)のレースを考えつづけるのでした。ユンカーも固く口を閉じて何にも語らない、私の心も苦しいが、世界一の力をもったユンカーもまた苦しんでいるに違いない。「今日の百メートルに一等をとったら赤飯でお祝いだ」といって皆に送り出されたホテルの入口に、ハンマーで負けた沖田さんと帰って来た時は、いかにも自分の心があわれでなりませんでした。

その夜は、あまりの悲しみに眠る事ができませんでした。翌日になっても、昨日がよかったらば今日は元気で決勝に出かけるのだが――と考えると、負けたものの悲しみをしみじみ一日じゅうホテルで味わっていました。

*ヘレーネ・ユンカーもまた、決勝進出はならなかった。その後、彼女は同大会の400メートルリレーで銅メダルを獲得する

『婦人公論』1928年11月号