相手は誰でもいい、ただ私は走る

百メートルに破れた上は、何をもってこの恥を雪(そそ)ごうかと考えても、それは考え得られぬことでした。瑞典の大会から帰って日本出発するまで丸二年の間、百メートルただ一つに精進した私から、百メートルを失っては外に何一つありません。せめてこの大会に走幅跳か槍投でもあるならば、また何とか優勝の道もないではありませんが、女子には、百メートルと、八百メートル、走高跳、円盤、四百リレーの五つに限られているこの大会のことです。百も円盤も既に終っています。四百リレーは勿論、走跳(はしりとび)も私にはできません。そうした時にただ一つ私に何とか出来ようかと思うのは、八百メートルだけです。八百メートルといっても、女子の八百メートルです。一日や二日で走れるようにはなりません。まして今日これに出場しようとするまで一回の練習もやっていない私です。無理も世の中にはたくさんありますが、これほど無理なことは先ずありますまい。溺れかけたものは藁でも掴むとか云いますが、私の現在はまったくこの通りです。

八月二日、この日は棒高跳の中澤〔米太郎〕選手と、私の八百メートルの第一予選の日です。朝から降ったり晴れたりの雨模様です。もう今日はプログラムも気にならないし、気もあせらない、心はすっかり落着いて来ました。相手は誰でもいい、ただ私は走る、走って走って負ければ、よくよくオリンピックに運がないのだと、覚悟をきめました。ウォーミング・アップも二分三十五秒で割合らくにできました。しかし、いかに落着いているといっても、これから一時間後には、各国からの強豪の中でもまれるのかと思うと、幾分か胸さわぎも起きて来ます。

三十分前に会場の控室まで行くと、百メートルの時とはすっかり顔ぶれのちがった人ばかりが四人来ています。マネージャーとマッサージャーに顔を見られると、この人たちがあわれな私の姿をどう見るかと思って恥かしくなりました。

「八百メートルが走れますか」

とマネージャーが私に問うから、私は、

「百メートルに負けて口惜(くや)しいから」

と答えてやりました。

ドイツの選手と二人組んでいます。

会場に出て行くと、早稲田の人たちと日本の応援団の人たちが一斉に私の名前を呼んで下さる。

コース順は私が一ばん外側、一番不利なところに位置をとりました。

スタートはやはり八百の選手とちがいますから、一番早く第一コーナーと第二コーナーをとってバックストレッチに入ると、ドイツのラドキが出て来たので、その選手についで第一周を終り、第二周もぴったりこれについて走って、胸一つの差で二等になり、予選は無事にパスすることができました。

『婦人公論』1928年11月号

丁度(ちょうど)私たちの組にオーストリアのエッジがいましたが、オーストリアからの女子選手として来ている同選手も、私と同じように百メートルに出て第二予選に落ち、今日また八百メートルに出場したのですが、気の毒にも五等になって落ちました。

予選をすますと、私はすぐ合宿に帰りました。ゆっくりマッサージをとるためと、少しでも大会のざわつきを避けるために。

この日、中澤選手は奮闘の結果、六等に落ち、木村〔一夫〕選手の走高跳六等と共に、貴重な二点(點)を日本軍の乙女に贏(か)ち得たのでした。