「『太陽の季節』には、湘南でヨットに乗りナイトクラブで夜遊びをするという、消費社会を背景とする贅沢な風俗が描かれていて、登場人物たちは戦後の新しい価値観を体現していました」(栗原さん)撮影:川上尚見

三島由紀夫と拳闘

栗原 同時に、日生劇場だけじゃなく、映画界でも活躍なさっていて、原作・脚本のみならず、監督や主演まで務めていた。58年の『婦人公論』には、石原さんが初めて監督として自作を映画化した『若い獣(*5)』の撮影秘話が「監督日記」という題で掲載されているんですが、覚えておられますか?

石原 懐かしいな。僕は東宝に就職が決まっていたけれど、入社する年に芥川賞をいただいて入社1日で辞めたんです。けれど、映画監督として真面目にやっていたら、かなりいい線いってたと思いますよ。でも、『若い獣』を観た映画監督の新城卓さん(*6)に「石原さんの若い頃の映画は本当に残酷だなあ」って言われました。

栗原 残酷というのは?

石原 主人公の描き方が残酷だって。『若い獣』の主人公は、最後には何もかも失って破滅してしまうから。

豊崎 「監督日記」の中で、主人公を残酷に扱うのは〈主人公を、つまりボクサーを愛しているからだ〉と書いていらっしゃいますね。〈行為に渇仰し破滅する青春のエネルギーの傷ましさを、ボクサーという人間を通じて描きたかったからだ〉と。私は、「行為者」というのは石原文学の一つのテーマだと思うのです。

石原 そのテーマを浮かび上がらせるために、この映画ではボクシングジムの裏側を悪玉にデフォルメして描いたのですよ。でもそのせいで、そっちのスジの人に絞られた。顔にでかい刀傷のある用心棒に「石原ァ、やってくれたな」なんて言ってすごまれてね。なんとか手打ちということで収まりましたけど、あれは映画の筋よりも面白い経験だったなあ。(笑)

栗原 ボクシングは「太陽の季節」にも、最初の長編小説『亀裂』にも登場します。石原文学にとってちょっと特権的なスポーツですよね。

石原 中学のときにはじめて見て以来、とりつかれてね。夏休みに裕次郎と従兄とプロ野球を観に行ったときに、試合が終わると、職人みたいな人たちがグラウンドへ出てきて、やぐらを組み始めたんですよ。「なにやるんですか」って訊いたら、当時はまだボクシングって言わずに「これから拳闘の試合がある」と言うんです。面白そうだなって、従兄と3人でなけなしの小遣いから晩飯代を削って、観てみた。一番安い席にいたら隣りのおばさんが「おい、バカ! 打て、ボテ打てよ!」とかってすさまじい野次を飛ばしてる。ボテっていうのはつまりボディブローのことだったんだけど、すごい剣幕でね。怒鳴りまくっていた。それでこちらも興奮して、すっかり拳闘ファンになった。

豊崎 ボクシングの勃興期は、そんな感じだったのですね。

石原 結婚前に女房とデートで国体の試合を観に行ったこともありますよ。学生の試合はタダで観られるから。そのうちプロの試合も観に行くようになって、新聞に観戦記を書かせてもらうようになりました。僕の記事は選手やオーナーから評判が良くて、そのおかげでいろんな連中と顔なじみになれた。

栗原 三島由紀夫さんも石原さんの影響でボクシングを始めたそうですね。『鏡子の家』(*7)は石原さんの『亀裂』に影響を受けて書かれたと言われていますが、やはりボクサーが出てきます。

石原 当時、普通のインテリは拳闘なんか観に行かなかったんですな。観てみたいけど一人じゃ気が引けるってんで、どうしても一緒に連れて行ってくれって言ったのが三島由紀夫と有吉佐和子。あるとき三島さんと一緒に観に行ったら、そのスジの者が僕に酒を呑もうと声をかけてきて、僕は試合を観たいのに三島さんは興味津々なわけ。それで裏へ行ったら、三島さん、膝をかがめて「三島由紀夫でございます」なんて、仁義を切るみたいにやりはじめて。この人面白いなあと思った。(笑)

*5 1957年『文藝春秋』に掲載された短編小説を、58年東宝で映画化。石原慎太郎原作・脚本・監督・出演。若いボクサーが恋人、興行主らに翻弄され破滅していく姿を描いた。
*6 映画監督。1944年〜。石原慎太郎作品では『秘祭』『僕は、君のためにこそ死ににいく』『青木ヶ原』を映画化
*7 1959年、新潮社より刊行された三島由紀夫の小説。戦後の荒廃した社会を背景に、資産家の女主人鏡子のサロンに出入りする4人の青年を描いた群像劇