不遇にめげずに

豊崎 それに、膨大な作品数に比して、受賞された文学賞も少ない。芥川賞以降の受賞は、71年に長編『化石の森』(*2)で芸術選奨、それから88年に中編「生還」(*3)で平林たい子文学賞の二つ。

栗原 「生還」は良かったですねえ。

『石原慎太郎を読んでみた 入門版』(著:栗原裕一郎、豊崎由美/中公文庫)

石原 『化石の森』は、はじめ新潮社主催の日本文学大賞の候補になったんです。結局、僕は落選し、河上徹太郎と福田恆存が受賞した。あとになって落選理由を聞かされたんだけど、福田は劇団雲を抱えていろいろ苦労しているから、報いてやろうじゃないかということで決まったと。石原は今回は我慢してくれということで、芸術選奨なんてお上の賞でお茶を濁されたんですよ。そのとき、文学賞というのは作品の質ではなく、そんな功労賞みたいな評価で決められるのか、文壇はそんなチャチな政治をやるのかと思って、うんざりしましたね。

豊崎 では、その後に受賞した平林たい子文学賞は、「文学に生涯を捧げながら、あまり報われることのなかった人」が対象ですから、授賞理由に叶っていますね。(笑)

石原 そうそう。あれは文壇から虐げられた作家にくれる賞だから。(笑)

平林たい子賞の授賞式で、石原さんは「今後も不遇にめげずがんばります」とコメントし、会場を笑わせた(『読売新聞』1988年6月8日)

 

栗原 フランスのアンドレ・マルローなんかも、文学者で政治家でしたが、そんなに評価が割り引かれている感じはないですよね。お国柄というのもあるんでしょうね。

豊崎 そうですね。石原さんもたとえばアメリカに生まれ、アメリカの作家、政治家になっていたら、今とはまた違う評価を受ける人物になっていたんじゃないかと思います。

石原 実は若い頃、一番忙しかった時期に、アメリカのハーコート・ブレイスという名門出版社から何度も英訳版を出させてくれって手紙が来ていたんですよ。面倒であまり頓着もせず放っといたら、とうとう、「あなたには誠意がない。二度とオファーはしません」というような手紙が来た。あれはつくづく、もったいないことをしてしまったなあ。

*2 1970年、新潮社刊。母親の不貞をきっかけに実家と没交渉になっている医学生・治夫は、高校の同級生でマドンナだった英子と再会。嫌悪という感情によって強く結ばれた二人は、完全犯罪を目論む
*3 1988年、新潮社刊。末期がんの告知を受けた男が、獣医の勧めに従い化学療法をやめ、家族からも離れ、ひとり別荘にこもって特殊な酵素を飲み続けることでがんを完治させようとする