生きづらい世の中で心の平穏を求める彼女たち
最近、周囲で夫婦間の不和や不倫についてよく耳にするようになりました。それぞれの家庭には、その夫婦にしかわからない事情がある。家族ぐるみのつき合いがある人から話を聞くと、夫と妻では見えている風景がまったく違ったりして。その差や多層性を描写したいと考え、さまざまな夫婦や恋愛を多視点から描いたのがこの小説です。
結婚して8年の由依(ゆい)は、パリで再会した友人の瑛人(えいと)と不倫関係になり、夫に離婚を申し出ます。一方、彼女の夫である桂(けい)は、突然の離婚宣告に動揺し、由依をつなぎ留めたいと思いながらも、どうしていいかわかりません。
ほかにも、夫のDVに疲れ不倫によって心のバランスを保つ由依の友人・真奈美(まなみ)。夫の浮気や実母との軋轢、ままならない育児にマグマのような怒りを溜める英美(えみ)。不実なホストに恋焦がれ、パパ活やSNSで空白を満たす由依の妹・枝里(えり)。各章ごとに視点を替え、時に過去の出来事を振り返りながら、それぞれが抱える生きづらさを描いています。読者には誰かしらに感情移入してもらいたくて、登場人物はあえて極端な設定に。英美に共感すると言ってくれる人は多いです。
私が近しさを感じるのは由依。彼女は、夫から「感情がない」「ロボットのようだ」と評される冷めた女性。私は昨年までの6年間フランスで暮らしていたのですが、その状況も由依と共通しています。パリに移住した最初の1、2年は、2人の子供を連れて何をするのも大変でした。
腹の立つことも多々あって、「こんなことに一喜一憂していては生きていけない!」と、無意識のうちに感情をシャットダウンするように。当時の私自身の気分が反映された人物ですし、「誰も愛していなくても、誰からも愛されていなくても、普通に生きていける」という彼女の超然とした生き方は、理想でもあります。
タイトルの“アタラクシア”は、「心の平穏」を意味するヘレニズム時代の人生観です。誰しも心に波風の立たない平穏な状態を求めているのに、現実はうまくいかない。不倫に走る男女も快楽を求めているというより、もがいている途中に必死でつかまったものがそれだった、という印象を受けます。今を生きる人のよるべなさ、生きづらさをこのタイトルに託しました。
ここまで生きづらさを感じるのは、人生のゴールが見えにくくなっているからでしょう。今や終身雇用制度は崩壊し、男性が働いて女性が家庭を守るという役割分担も崩れています。同性婚が肯定的に受け止められるなど、少しずつ多様な価値観が認められるようになり、それは当然のことだと思いますが、時代の変化とともに居場所を奪われる人たちがいるのも事実。
これまで自分を成り立たせていた要素が、少しずつ機能しなくなっている。良き妻、良き母といった一元的な役割で自分を支えるのではなく、趣味、仕事、子供、配偶者などさまざまな要素を少しずつ寄せ集めて、ようやく自分を保つことができる。皆、一度立ち止まり、自分のあり方を再考しなければいけない時が来ているのかなと思います。
とくに女性にとっては、これまで堅苦しい規範を押し付けられてきたのに、急に「自分らしく生きよう」という流れが加速して、混乱の多い時代かもしれません。昨日まで制服だったのに突然私服でいいと言われたような……。息苦しい思いをしている方々にとって、この小説がうまく息継ぎするためのヒントになればうれしいです。