何度か通って虫歯の治療が終わった時、「幼い頃から歯並びに悩んできました。この斜めになっている歯を抜いてください」と単刀直入に申し出てみた。医師は「最近の矯正はそんなに費用はかからないけど」と、やんわり拒否したが、「抜くより安いはずはない」と粘り続けたところ、渋々抜歯をしてくれた。幸い出血も痛みもなく、真っ直ぐに揃った歯を想像すると小躍りせずにはいられなかった。
それから2年ほど経過しただろうか。家のことでいろいろあり、歯のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。ある晩、義父母たちと料亭で魚料理を食べた帰り、上の前歯の間あたりに小骨が刺さっている感触がある。爪を立てても取れず、帰宅して洗面所の鏡を見て驚いた。
久々に凝視した私の口の中では、上の2本の前歯のうち左側が右側に覆いかぶさるようにズレて、その間の歯茎のところに小骨が刺さっているではないか。揃っているはずの下の歯たちも、抜いた歯の空席に向かって傾いているように見えた。
脳裏をよぎるのは、「歯を抜いたら、食いしばりの癖と就寝中の歯ぎしりで変なズレ方をするかもしれない」と忠告してくれた医師の言葉だ。私が今後できることは、歯が見えないようにしゃべり、笑うことのみ。不謹慎だが、コロナ下でのマスク生活には心底感謝している。
それからというもの、暇さえあれば鏡の前で口を開けている。息子はそんな母親が滑稽らしく、「自意識過剰。誰も人の歯なんて見てないし」と呆れている。確かに人の顔なんて見ていないものだ。
でも、自分のためにと奮発した電動歯ブラシを駆使して、「8020(ハチマルニイマル)」ならぬ「8019」で、80歳まで健康な歯を19本保ってやろうじゃないか。