1932年のロサンゼルス・オリンピックに出場したメンバーたち。(右より)守岡初子、荒田雪江、横田みさを、鎌倉悦子、松沢初穂、小島一枝、前畑秀子

宿舎クラウエンハイムは、スタジアムのすぐ傍の樹立(こだち)の中にある二階建ての建物で、女子陸上軍と私たち水泳軍の人々が泊って居りましたが、天野先生には、この所在(ありか)がなかなかおわかりにならないで、あっちこっちを散々捜し回られた末、やっとそのお元気なお顔を宿舎にお見せになったのは入場式もすんだ八月二日。――

「とうとうベルリンで迷子になってしまった」

と大笑いなさったが、その後で、二人の前に差出された一通の手紙、――校長椙山正弌(すぎやままさいち)先生からの二人あてのお手紙です。

小島さんと私は、顔を寄せるようにして読みましたが、おもわず顔を反(そむ)けて涙ぐみました。ひしひしと迫るやさしい御訓戒!

前畑さん、小島さん、しっかりおやんなさい。大いに頑張ると同時に、女らしさを失わないことです。何も思いのこすことのないようにおやりなさい。こちらでは、皆、二人の健康を心配しています。母国のため、どうか呉々(くれぐれ)も身体は大切に……

天野先生と私たち二人は、宿舎のヴェランダに出て、はるかに故国の空を眺めました。

「校長先生、頑張ります。必らず思いのこすことのないようにやり通します。母国のために」

二人とも、思わず頭(かしら)を垂れてかたく心の手を合せたのでした。

 

負かされるかもしれないという一抹の不安

天野先生がベルリンに来られてから、今までの心の動揺も不安もすっかり落付(おちつ)きました。調子も出て来ました。調子の回復するまでに実に25日。タイムもすっかり見直してきましたので、コーチャーの松澤初穂(まつざわはつほ)さんも、監督の白山廣子(しろやまひろこ)さんも、我が事のように喜んで下さいました。

予選には入れると思いましたが、しかしどんな記録が出るか、各国の選手がどんな実力を発揮するか、と、第一予選の時は多少心配でございました。懸命に泳いで、上(あが)って、「三分一秒九」の長水路の世界記録を作ったと聞かされました時は、うれしいというよりは、ホッとしたような気持でした。

自分はホッとしたが、今度は小島さんの番です。この日、八月九日には、女子の百米第一予選が行われ、我が代表選手古田(ふるた)つね子さん竹村れい子さんが力泳(りきえい)つたなく惜しくも失格したあとを受けて小島さんが最後のホープとしての出場です。元気よく出ていく小島さんの肩に手をやって、

「一(かず)ちゃん、頑張ってよ」

と云うと、一ちゃんはにっこりうなずいてスタート台へと登りました。そして大奮戦、フヴエガー(丁)〔編集部注:デンマークの略称)についで一分十一秒フラットの日本新記録で二着となり、準決勝に出られることになりました。「しっかりやってよ、一ちゃん」「秀(ひで)ちゃんもね、頼むわ」と、宿舎へ帰ってからの二人の張り切りようは大したものでした。

その翌日は女子百米の準決勝。世界の強豪選手を向うに回して小島さんは必死になって力泳しましたが、遂に及ばず、敗れてしまいました。

「すみません……」と一言云ったまま涙ぐむ小島さんを、今度は私が慰めました。

「一ちゃん準決勝に残ったことが、立派に責任を果たしたことじゃァないの……それにまだ四百があるし、戦いはこれからよ」

一ちゃんはやっと元気を出して、次の戦い四百米自由型に備える意気を見せてくれました。

ところで次は、私の出場した二百米平泳準決勝、これが三分三秒一というタイムで一着ではあったが不安な勝利でした。と申しますのは、第二組の一着、ドイツのゲネンゲル嬢は、三分二秒八のタイムで、私のより優れていたからでした。

若(も)しかすると、次の決勝には負かされるかもしれないという一抹の不安が、私の胸を覆(おお)うたのです。私がふさぎこんでいると、今度は一ちゃんが慰さめ役。

「秀ちゃん、準決勝だから心配は要らない、問題は決勝よ。決勝こそ頑張って頂戴」

私が沈む時、いつも朗(ほが)らかな微笑で慰さめてくれるのが一ちゃんでした。私は一ちゃんのいつに変らぬ友情を、異郷で殊(こと)にしみじみと感じさせられました。