泳いで、泳っで、泳ぎぬいて、ゴール!

悩ましい夜は明け放たれました。森のかなたに昇った朝陽は、力づよい光芒を四邊(あたり)に投げて、今日の運命の一戦を見守るかのようでした。

この朝、私は、亡き両親の位牌と塩見梅子さんのお写真を拝み、これから、輝かしい朝日の下に、はるか東の方、祖国日本の空に向かって合掌した後、皆(みん)なして、何ともいえない爽やかな気持で、食事をいたしました。

「頑張ってね、秀ちゃん、最後の一戦よ」

「ありがとう、やるわ、手の折れるまで……」

私と一ちゃんは、がっちりと手を握り合いました。もう、何の不安も、何の懸念もない。塩見梅子さんと、亡き両親のみ霊(たま)が、きっと私をお守り下さる、と信じられ、大事な一戦を控えて身も心も、実に軽やかでございました。

三時五十分、私は、スタート台に登りました。私は六コース。隣り七コースにはドイツのゲネンゲル嬢。

ふと、左側選手席を見ると、天野先生が、にっこり笑って「しっかりゆけよ」という合図を目でなさる。「はい……きっと」私も心の目で答えて、身体を思いきりのばす。

拍手も声援も、どよめきも、一瞬止んで、重苦しい静けさ、――チラチラっと目の先に浮ぶ椙山校長のお顔! 母の顔! 梅子さんの顔!

「前畑のお姉さん、しっかり……」耳の奥で梅子さんの声がする。恐ろしい緊張の一瞬。

号砲一発、サッとスタート!

あとは夢中、何にもわからない。「出て……逃げ込み」の戦法を守って、泳いで、泳っで、泳ぎぬいて、ゴール!

勝ったのか負けたのか、少しもわからない。スタンド総立ちになってワーワー騒ぐが、誰への歓呼か、少しも私にはわからない。「思いきりやった。これでいい」と、勝つも負けるも心残りない心境で、ふと顔を上げると、お隣りのゲネンゲル嬢が、笑いながら私に手をさしのべました。

「ゲネンゲル嬢が勝ったのか」と思いながら私は、彼女の勝利をお祝いするつもりで笑って握手すると、頭の上では写真班が無暗(むやみ)に写真器を向ける。気のせいかゲネンゲル嬢に向けているようです。

その内、近くから「ばんざい、ばんざい」の声がする。変だ、と思って上がって、きょとんとすると、いきなり監督の白山廣子さんが飛んで来て、抱きついて、

「勝った! ありがとう、ありがとう」

と叫ぶ。

「え、私?」

「一着よ、優勝、優勝!」

とたんに身体がはずんで、涙がボロボロこぼれて来ました。そして控室へ逃げこんだまま白井監督と抱き合って、声をあげてまた泣いてしまいました。

小島さんがくる。天野先生がくる。うれしそうなそのお顔。私は責任解除のホッとした気持ちから、思わずよろよろとしながら、

「先生、ありがとう……これで校長先生によい電報がうてます」

夢幻(ゆめうつつ)で、控場を引揚げました。宿舎へかえると、両親の位牌と、塩見梅子さんのお写真を並べて心から戦勝の御報告をいたしました。

「お父様、お母様、これでやっと責任を果しました。御安心下さい」

それから塩見さんのお写真を、私はおもわず胸に抱きしめました。

「梅子さん、ありがとう、……お誓いを果すことができて、私うれしい……」