『婦人公論』昭和11年11月号

「塩見さん、明日、どうか私をお守りしてね。」

明日は、いよいよ決勝というその前夜、――

私は、つとめて平静に心を保とうと思って、お室(へや)で、同じ平泳選手の壺井宇乃子(つぼいうのこ)さんや小島さんなどとレコードをかけて、明るい和やかな気分を一しきり楽しみました。壺井さんや一ちゃんが、少しでも私を愉快にさせようとして、何くれとなく面倒をみて下さる気持ちが、ようくわかればわかるほど、私の心は泣きたいほどの感謝でいっぱいでした。

床(とこ)に就いてからも、目が冴えて、なかなか寝つかれない。チラチラと目の前に、大競技場の光景が浮んでくる。プールの青い水と真赤な線が浮んでくる。拍手の音、喚呼の嵐、ヒラヒラとする日章旗、――そうだ。明日の一戦にこそ……という思いが、抑えれば抑えるほど、強く湧き上ってくる。

「いけない、寝なければいけない……」そうおもいながらふと横をみると淡い電燈の光りに照(てら)されて机の上に塩見(しおみ)さんのお写真が、じいーっと私をみつめています。優しく潤んだ目で、今にも私に何か呼びかけるような表情です。私は、おもわず頭を擡(もた)げて、

「塩見さん、明日、どうか私をお守りしてね。身を砕いても、明日こそ戦うから……」

なんともいえない差し迫った感じがつよく胸底からこみ上げて、なつかしい塩見梅子さんの思い出が、次から次へと走馬燈のように脳裏に浮ぶのでした。

塩見梅子さん、――昨年の一月二十一日に、僅(わず)か十五の身で忽然とお亡くなりになった椙山高女二年生の水泳選手塩見梅子さんは、私や小島一枝さんと同じ高野山麓の紀の河畔、妙寺小学出の新進花形でした。小柄な、しおらしい方でしたが、どこからあんな力が出るかとおもわれるようなきびきびした泳ぎぶりと、昭和8年、私が高女五年生の時に入学して来ると、すぐ選手として鮮やかな存在を示しました。

『婦人公論』昭和11年11月号

塩見さんはお得意の五十米では日本記録保持者であり、百米では昭和九年度に全日本選手権を獲得した天才選手、しかも日本女子水泳界では一番の年少者であり、一番、将来を有望視された方で、もしあのままその天分を延ばしたなら、自由型全種目に亙(わた)っての選手権を得られることは、当然の事実だったのでございます。

もちろん、梅子さんは、生きていらしったらベルリン・オリンピック大会への代表選手として出場され、華々しい活躍をなさったことでしょう。思えばおもうほど惜しい人でした。ほんとに彗星のように現れて、又彗星のように消え去った、はかない存在でしたが、それだけに強い、深い印象を私たちに残して下さったお方でした。お亡くなりになったことは、今考えても、まるで夢としか思えないのです。