この記事の目次
「男の子は仕事 女の子は家庭」という意識
父の病死で母の生活は変更を余儀なくされる
弟にも刷り込まれた昭和の価値観 父の遺影の前にマスクメロンが 「男は仕事、女は家庭」の象徴 専門家に聞いてみた

父の病死で母の生活は変更を余儀なくされる

母は、高度成長期のサラリーマンを夫に持つ典型的な専業主婦だった。子供を2人もうけ、転勤族の父に従い山口県、大阪府、東京都の社宅を転々とした。当時、育児はもちろん妻の役目。山口では近所の里山によく連れていってくれ、草木の名前を教えてくれた。だから私は植物の名前はかなり詳しい。感謝している。

そんな母の生活は30歳後半で変更を余儀なくされる。父が病死した。私は高校1年、弟は中学1年。父の親が持っていた土地に家を建てた直後で、いろいろな方の助けもあり、母はフルタイムの仕事につかず私と弟を育てることができた。「子供を亡くすより、パパが死んだほうがまだよかった」と当時、言っていた。女手一つで子供2人を育てる責務を負い、まい進したのだと想像する。

私は、1浪をさせてもらい希望の大学に入り、毎日新聞に就職した。3歳の時、遊んでいて右ひじを複雑骨折した。右ひじはまっすぐ伸びず、手術の跡が残った。「女の子の体に傷をつけて申し訳ない」と母はたまにもらした。贖罪意識のようなもので「勉強事」を自由にさせてくれたのだろう。

しかし、弟を「いい学校、いい会社」に入れる熱意は私に対するものの比ではなかった。学区ナンバー1の都立高校に入るためには内申書が重要。中学3年の時にはなんと音楽の家庭教師をつけた。弟は2浪。3浪はまずいと思ったか、母は北海道の大学にまで下見に行った。弟が希望する業界の会社に就職させようと、世の中的にトップと目されるその業界の会社のコネを探しまくり、動いていた。そこへの就職はかなわず、母は「父親がいないせいだ」と怒っていた。