元編集長・鳥嶋さんいわく、ライバルを『マガジン』から『コロコロ』から置き換えたことで『ジャンプ』に大きな変化が生まれたそうで――(写真提供:Photo AC)
『電波少年』『ドラゴンボール』『ドラゴンクエスト』。エンタメ史に輝くヒット作の裏にはいつも天才編集者やプロデューサーの存在がありました。しかし、彼らも初めから「天才」だったわけではありません。今回、元・週刊少年ジャンプ編集長で『ドラゴンボール』などに携わった鳥嶋和彦さんが、エンタメ社会学者の中山淳雄さんと対談。鳥嶋さんいわく「編集長なんて現場仕事は半分で、残り半分は社内政治」なのだそうで――。

異例の事態で編集長に「ならなかった」

中山 第3代編集長の西村繁男さん*1が「600万部達成の快挙は、鳥山明の破壊的なパワーを借りて初めて実現し得たことは、誰も否定できないだろう」と書いているように、それを新人時代から作り上げた鳥嶋さんは当然編集長候補にあがります。

ただその後、取締役会で内定していた鳥嶋さんに対して、第4代編集長の後藤広喜さん*2が後継として1993年に第5代編集長に抜擢したのは堀江信彦さん*3でした。取締役会での決定が現場に覆されるという異例事例だったと西村さんが残してますが、これはどういう経緯だったのでしょうか?

鳥嶋 そこは僕も知らないんだよね。どこかで噂で言われているみたいだけど。確かに過去、集英社の歴史で編集長代理からそのまま編集長に「ならなかった」事例は僕しかいない、という珍しいものだった。だから入れ知恵する人もいて、「鳥嶋くん、これは抗議するか辞めるかしたほうがいい」と。

でも、僕はそもそも週刊少年ジャンプの編集長になりたかったわけでもないし、頭を下げたり交渉するのもいやだったんで、考えていた『Vジャンプ』*4の企画を立ち上げたんです。

中山 サラリーマンとしての挫折というかショックのようなものはあったのでしょうか?

鳥嶋 全然。「あ、そう!」くらいなもので。そもそも新しいことをやるほうが好きだったし、僕の中ではもうマンガだけで引っ張る時代は終わると思っていた。マンガ、ゲーム、アニメが1つの画面のなかに共存する時代がくると思っていたから。

*1 西村繁男(1937~2015):1962年集英社入社、68年のジャンプ創刊編集長の長野規とともに立ち上げ、本宮ひろ志、梅本さちお、川崎のぼるなどを担当。78年より第3代ジャンプ編集長。89年に役員待遇となるも94年に退社。ジャンプ時代をつづった『さらば、わが青春の『少年ジャンプ』』(飛鳥新社、1994)でも有名。

*2 後藤広喜(1945~):1970年集英社入社。『アストロ球団』『ドーベルマン刑事』などを担当、1986年から生え抜き第1号としての第4代ジャンプ編集長。集英社取締役を経て、2012年に退社。

*3 堀江信彦(1955~):1979年集英社入社。『北斗の拳』『シティーハンター』を担当し、1993年に第5代ジャンプ編集長に就任。1996年に退任。2000年に退社。その後はマンガ家の原哲夫、北条司、次原隆二とともにコアミックスを起業。

*4 Vジャンプ:V(ヴァーチャル)の意味を加えて週刊少年ジャンプから派生したマンガ月刊誌。1993年発刊。『ドラゴンクエスト』シリーズや『ファイナルファンタジー』シリーズなどゲームの新着記事、攻略記事も掲載され、2022年現在でもゲーム・エンタメ系雑誌の中では最大となる部数14万部を誇る。