2017年、世界最古の巨大建築物「クフ王のピラミッド」の内部構造を、素粒子によって画像観測したというニュースが話題になりましたが、科学技術はいまや考古学の分野にまでおよんでいます。一方、従来の歴史学では、科学や物理に反しているにもかかわらず「結論」「通説」としてまかり通っているものが少なからずあると話すのが、三井造船で船の設計に長くかかわり、著書『日本史サイエンス』シリーズがヒットしている播田安弘さんです。播田さんからすると、関白・豊臣秀吉が海を越えて二度にわたって朝鮮へ出兵した文禄の役、慶長の役には特に疑問が多いそうで――。
文禄の役・慶長の役
信長が進めた天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、関白となって位人臣をきわめ、事実上の日本国王となりました。
彼の施策には、大名の私戦を禁じた惣無事令や刀狩りなど、国内には平和をもたらすものであったと評価されていますが、朝鮮に対しては二度の侵略戦争を行いました。
一度目は1592年の文禄の役(韓国では「壬辰倭乱」と呼ばれています)で、日本から朝鮮半島へ約16万の兵が送り込まれました。二度目は1597年の慶長の役(韓国での呼称は「丁酉倭乱」)で、日本は約14万人の兵を動員しました。
通算7年におよぶ日本と朝鮮、さらには朝鮮の宗主国である明をも巻き込んだ戦いは、それまでの東南アジア史で最大にして、当時の世界最大規模の戦争であり、多大な戦死者を出す凄惨きわまるものとなりました。
しかし結局、日本軍は戦果をあげられず、秀吉の死によって撤退を余儀なくされたのです。