友達も一人もいませんでした。ピン芸人で、自作自演ですからそもそも一人なんです。もちろん作品をつくるときはチームでお稽古をします。でも楽屋でチームのみんなと一緒にいる時間に、私は次の仕事の台本を読まなくてはならなかった。そりゃ仲も深まりませんよね。お金だけはいただいていたけれど、つまらないことですよ、そんなのは。あの頃からずっと、このままではいけない、何かを変えたいという気持ちを持ち続けていました。事務所には折にふれてそんなことを伝えてきたのです。
私の所属していた太田プロダクションは、関東で一番古い演芸事務所で、かつてはてんぷくトリオやトリオ・スカイラインなど、そうそうたる先輩方が所属していました。現在は、多角化して俳優部もあれば、AKBの子たちが所属するアイドル部もあります。
いろいろな人たちの才能が融合することはいいと思うのです。でも、私の本業はお笑い芸人。仕事で一番のステイタスは、演芸場に出ることと考えてきました。提灯が下がっていて、お客さんが木戸銭を払って入場する演芸場でネタを披露したい。
でもこの願いは何度訴えてもかないませんでした。お金にならない仕事だからなのか、私の希望を前向きに受け止め、そのために動いてくれようとする人はいなかった。
それからもうひとつ、ドラマや映画など演じる仕事が、いつからかなくなってしまったことも、残念に思っていました。年齢を重ねることによって、お母さんだって、おばあさんだって、妖怪だって(笑)演じられるようになるわけで、私としてはしっかりやっていきたい分野でした。
文句を言うぐらいなら自分でやればいい
辞めることを考えるようになってから19年、とにもかくにも続けてきたのは、育てていただいた恩もありましたし、当然感謝もしていたから。そしてどこかで事務所に対して期待をしていたからだと思います。
ここへ来て辞める決断をしたのは、時代が「令和」に変わり、私自身が芸能生活40周年を迎えるこの節目で、なんとか状況を変えなくては、と思ったことが大きいですね。もう誰かのせいにするのも嫌ですし、文句を言うぐらいなら、自分でやればいいのよという思いもあり。とうとう来年60歳になりますし、今がちょうどいいタイミングなのかなって。
それで、2018年末くらいから、本気で辞めさせてくださいとお願いをしてきました。最初は「年が明けたら」という話でしたが、「3月いっぱい」になり、舞台の切れ目が悪いとかで「5月」になり、そして「6月」に。
その間に、身に余る引き止めの言葉をたくさんいただいて、それはとってもありがたかったのですが、欲しかったのは言葉じゃありません。動いてほしかった、私のやっていることに食いついてほしかった──。