「泥臭いプレーは明らかに減っているよね」(定岡)

──後楽園は日本で初めて人工芝を導入した球場ですが(1976年)、最初は硬くて大変だったらしいですね。

川口 俺は少したってからだけど、コンクリートみたいに硬くて、人工芝にスパイクの歯が刺さらなかった。だからバント処理がものすごく難しかった記憶がある。

『昭和ドロップ!』(著:定岡正二・篠塚和典・川口和久・槙原寛己/ベースボール・マガジン社)

定岡 できたばかりのころはもっと硬かったよ。あと滑るんだよな。

篠塚 今と比べると芝が短かったですしね。普通のスパイクだと歯が引っかかるんで、守備用は半分に削って使ってました。最初は打席のときは普通のスパイクに履き替えていましたが、途中からはやめた。特に夏場ですけど、しっかり紐を結んでいたのを履き替えると、緩むというか感覚が違ってくる気がしたんですよ。

川口 スパイクはプラスチックのポイントも流行りましたよね。

篠塚 うん。メーカーも人工芝用には、いろいろ苦労していたよね。

定岡 最初のころ、試合前に人工芝の上で走るとヒザを痛めるから、特にピッチャーは絶対に走らなかった。多摩川で走ってから来たり、近くの小石川公園で走ったときもあったな。

川口 センターに土の部分もありましたよね。僕らはあそこで走りました。

定岡 それはあとで選手がリクエストして、つくってもらったんだ。

篠塚 人工芝は硬かったけど、イレギュラーはない。足でならすこともないから楽は楽でしたよ。ただ、飛び込むかどうかは悩んだ。摩擦で痛いし、皮がベロッとむけるからね。夏でも長そででやってました。

川口 でも、シノさんは、よくダイビングキャッチをしていましたよね。

篠塚 キャンプから、ずっと僕たちは飛び込んで体を鍛えていたからね。体に染みついている部分もある。

定岡 泥だらけにならないと練習にならない気がしたよな。みんな汗まみれ、泥だらけでやって当たり前というか。また、ノックがうまい人がいたんだ。二軍時代は、寮長もやっていた武宮敏明さん(伝説の鬼寮長)が捕れそうで、あと一歩ぎりぎり届かないところに絶妙に打ってくる。それを必死に飛びついていた。

篠塚 いつからか、内野手は飛び込まないのがいい、みたいになってしまいましたね。今はキャンプに行っても選手のユニフォームが汚れてないですし。

定岡 昔は飛びついたけど、もう一歩で届かなかったりするプレーってよくあった。今もファインプレーはたくさんあるけど、ここまでと決めているのか、そういう泥臭いプレーは明らかに減っているよね。合理的になったと言われたらそうなのかもしれないけど、なんか寂しさもある。僕らがおっさんになったからかな。もうちょっとガムシャラな姿を見たい気もするんだけどね。