写真提供:photoAC
通常の家庭では、親が子どもに道徳観念や“人として”大切なことを教える。だが、中には歪んだ感情をぶつける相手に「我が子」を選ぶ親もいる。そういった場合、子どもは親に必要なあれこれを教わることができない。私の親も、まさにそれだった。
だが、そんな私に生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたものがある。それが、「本」という存在だった。このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた私―-碧月はるの原体験でもあり、作家の方々への感謝状でもある

歪んだ家庭で息をする者同士の夜

暗い夜道を独り駆ける。誰にも捕まらないように、誰にも見つからないように。走るたび、股の奥に鈍痛が走る。それでも足を止めず、人目を避けるために裏道を選び、目的地へと急いだ。河原沿いにある幼馴染の家まで、およそ5分。たったそれだけの距離が、いつもやけに遠く感じた。

窓ガラスを軽くノックすると、カラリと乾いた音を立てて窓が引き開けられる。深夜1時を回っているのに、家人は特に驚いた様子もなく、私を室内に招き入れた。目的地は、同級生である幼馴染の家。私と幼馴染にとって、これは非日常ではなく、ありふれた風景だった。私は父の存在を感じずに済む場所を、彼は人の温もりを欲していた。「互いの利害が一致していた」という表現は、いささか私に都合のいい物言いだろうか。でも、実際当時の私たちは、互いを必要としていた。

「何読んでるの?」
「小説。お前、多分好きだと思うから、読み終えたら貸すよ」

夜空に浮かぶ小さな満月と、インディアンのモチーフを模したテントから漏れる灯り。暗闇をぼんやり照らすかすかな光が美しい装丁が、重厚な本の厚みにしっくりと馴染んでいる。本はいい。物語の世界に没入している時間だけは、現実の痛みや煩わしさを忘れられる。現世から逃れる時間がなければ、私はまともに息ができない。

「読みたい。待ってる」

それだけ答えて、硬い床に腰を下ろす。「ほら」と彼が投げて寄越した毛布は、わずかにカビの臭いがした。洗濯、掃除、食事の用意。それらを親にしてもらえるのが当たり前な家もあれば、そうではない家もある。私も彼も、世間一般で言うところの「普通」とは少し違う世界で育った。だが、私たちにとっては、それが揺るぎない「日常」だった。