1964年(昭和39年)。東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されるこの年に福井県出身の松山数夫という16歳の少年が東京駅に降り立った。
のちの「五木ひろし」―――誰もが認める国民的歌手である。芸能界に飛び込んで来年で60年。歩んできた歴史は、昭和の歌謡史そのものだ。五木ひろしが見た風景、語り継ぐべき日本の歌謡史を語る連載です。(構成◎吉田明美)

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「三谷謙」の時代

僕は「松山まさる」として、2年で6枚のシングルを出しました。でも、売れなかった。一年先輩の都はるみさんの公演の前座をしたりして、鳴かず飛ばずの日々でした。
当時は、三波春夫さんの「東京五輪音頭」や越路吹雪さんの「ラスト・ダンスは私に」なんかが流行っていました。御三家といわれた橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さんも売れていた。「早く売れたいなあ」と毎日思っていたから、いつ声がかかってもいいように、常に声を最高の調子にしておかなきゃ、と気を使っていました。

松山まさるとしてのデビュー当時。16歳の初々しい五木さん(写真提供◎五木プロモーション)

そのうち「ここにいるよりきっと売れる」「自分が売ってあげる」などと声をかけてくれる人が出てきて「それならば」と移籍しました。
次の芸名は「一条英一」です。この名前では3枚のシングルを出しました。
でも、結局プロダクションも倒産。売れないままです。そしたらまた声をかけてくれる人がいて、今度はミノルフォンと契約。「三谷謙」になりました。

数々のヒット曲を世に送り出したのはもちろんであるが、日本で流行したあらゆるジャンルの歌をすべて歌いこなせる歌手は、五木ひろしをおいてほかにないというのは、衆目の一致するところ。
ジャズ、ブルース、フォーク、ポップス、演歌などなど、どんなジャンルでも難なくこなす五木ひろしは、日本で生まれた歌謡曲を歌い継いでいくことのできる唯一無二の歌手だと言われている。
そのベースを作ったのが、この「三谷謙」の時代だったかもしれない。

このころ知り合った人からギターで弾き語りを勧められて新宿のクラブで弾き語りをするようになりました。この経験が、僕に「いろいろな方の歌をきちんと歌う」という力をつけてくれたんです。リクエストされた曲をギター1本で歌う。演歌、ポップス、ブルースといろいろなリクエストがありました。なんでも歌わなきゃいけないから、いろいろな人の曲を手当たり次第聴いていました。

●”あなたとアイマショー”vol.2  新宿駅から