東京の空が赤い
45年3月9日。その日は、学校に着いたとたんに帰宅命令が出ました。私の前に自転車に乗ったおじさんがいました。
その時、変な予感がしたの。あれっ、と思っているうちに、飛行機が低空でワァーッときて、何がなんだかわからない。道じゅうがバタバタバタバタ、土埃と草がウワーッと舞い上がって。
慌てて農家の垣根の中に頭だけ突っ込んだ。しばらくたって、恐る恐る外に出たら、防空頭巾の1ヵ所が焼けるように熱い。爆弾の破片が突き刺さっていたんですよ。
それを払いのけて前を見たら、たった今、自転車で走っていたおじさんが倒れた。「おじさーん!」と呼んだら、地面に血がぱーっと広がって。私、もう怖くて怖くて逃げて帰ってしまったの。あの時、何で戻って助けられなかったのか、いまでも後悔しています。
その夜は標準服を着たままで、寝るどころじゃなかったところに、また退避命令が。叔母さんが子ども2人連れて、私が後を追って、けもの道を伝って山に登りました。
もう真夜中でしたが、東京の空が赤いんです。最初は「横浜かもしれない」という声が聞こえて、横浜は遠いところだから大丈夫だ、と思いました。そのうちに、「東京だ、東京だ」って声がする。叔母さんに、「東京が焼けてるらしいわ」と言ったら、「大丈夫、大丈夫。かよちゃんのお父さんもお母さんも皆元気だから大丈夫よ」。
でも不安で不安で、もし皆が死んじゃったらどうしようと思いました。凍てついた土の上に正座して、「どうか神様、皆を助けてください。勉強を一所懸命やります。髪を舐めるのはやめます。本も机も何にもいりません。どうかどうか……」と本当に子どもの心で夜明けまで祈り続けました。
翌日、学校に行くと、友だちから「本所・深川は全滅だってよ」と言われました。すぐ上の兄(四代目竿忠・中根喜三郎氏)が突然現れたのは、それから4日後でした。服も皮膚もボロボロに焼けただれ、唇もめくれあがって。