海老名香葉子さんが8月14日の『徹子の部屋』に登場。今年10月で90歳を迎える健康の秘訣や、戦争への思いを語ります。今回は戦争中の体験について海老名さんが語った『婦人公論』2018年12月11日号の記事を再配信します。
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終戦から77年。戦争の時代に少年少女だった人たちが高齢になっています。平和な時代を生きる私たちにとって戦争は無縁に思えますが、過去の大戦を体験した人々も、平穏な日常生活を送っていたのです。故・林家三平さんの妻で、2人の落語家の母でもある海老名香葉子さんもその一人。職人の家に生まれ、少女時代はとても賑やかに暮らしていたそうですが、疎開中、離れて暮らす家族が東京大空襲に遭い……。海老名さんの体験した「戦争」とは──(聞き手=堤江実 撮影= 藤澤靖子)(聞き手=堤江実 撮影= 藤澤靖子)
物心ついた時から「愛国少女」
家族と暮らせたのはたった10年間でしたけれど、あんな良い家族はいないと、今でも思い出します。
私が生まれたのは本所竪川の釣り竿の老舗。「竿忠」といって、曽々祖父の代から続く江戸和竿の職人の家です。釣り好きのお客様でいつも賑わっていました。
常連さんの中には、歌舞伎役者の市川海老蔵(のちの十一代目團十郎)さんや、陸軍の偉い方、中島飛行機の社長さん、のちに私の親代わりになってくれた落語家の三代目三遊亭金馬師匠といった方々も。私も、かよちゃん、かよちゃんとかわいがられていました。
私が生まれたのは1933年で、祖母、父と母、兄3人と私と、8歳離れた弟の、8人家族。
二・二六事件が起こったのが、満2歳の時。この頃、祖母は国防婦人会の副会長、父が警防団の副団長で、祖母は副会長になってから、とても忙しそうでしたね。賑やかな我が家も、戦争と無関係ではいられなくなりました。
母方の祖母は、神田で小間物屋を営んでいました。母が神田に行く時は、いつもついて行ったの。おばあちゃんは必ずごちそうをたくさん用意してくれて。志乃多鮨のおいなりさん、近江屋洋菓子店のケーキ、万惣のフルーツ……。
家の外で私たちを待っていてくれてね、「おばーちゃーん!」と私が駆け寄るとぎゅっと抱きしめて、「なんて御身大きくおなりだねえ」と行くたびに言ってくれました。
そんなおばあちゃんには息子が3人いて、そのうちの長男がニューギニアに医師として赴き、戦死しています。苦しんでいる人を助けに行き、機銃掃射に遭ったのです。頼りにしていた息子が亡くなり、おばあちゃんはどれほど戸惑い、落胆したことでしょう……。それからまもなく、防空壕に落ちて腰を痛め、ほどなく亡くなってしまいました。
大人たちが戦争をどんなふうに見ていたかはわかりませんが、子どもは完全に洗脳されていましたね。何しろ、物心ついた時から「お国のために」。本心から思いました。「がんばりましょう勝つまでは」という気持ちが本当に強かった。
私は愛国少女でしたから。41年12月8日の開戦時には、一緒にラジオの放送をきいていた兄たちが、一斉にうちの戸を全部開けて、近所の人たちと「バンザイ! バンザイ!」と声を張り上げました。