山田洋次監督(左)と吉永小百合さん(右)(撮影:蓮井幹生)
〈発売中の『婦人公論』9月号から記事を先出し!〉
日本映画界をそれぞれ牽引してきた山田洋次監督と吉永小百合さん。二人は時代の移り変わりを敏感に感じ取り、それらを映画に映し出してきました。不安が渦巻く今の世の中には、何を思うのでしょうか(構成=篠藤ゆり 撮影=蓮井幹生)

作品から感じる母への思い

吉永 監督と初めてお仕事をご一緒したのは、『男はつらいよ 柴又慕情』(1972年)の時ですから、50年以上前ですね。

山田 もう、そんなになるんだ。小百合さんは、寅さんの理想のマドンナだったんですよ。この人に出てもらいたい、出てもらいたいと長い間願っていて、ついに実現して。あの時は、撮影所じゅうが喜びに包まれた。

吉永 私は監督の作品に出ると決まって、とても緊張しました。

山田 あの頃の小百合さんは、本当に忙しかった。

吉永 撮影所のすぐそばに旅館があって。別の仕事を終えたら、夜中にくたくたになって旅館に着くんです。そこで少し休んで、翌朝、撮影所に行く。その繰り返しでした。ある日、旅館に着いたら監督からお手紙が届いていて、「とらやに遊びに来るような気持ちで来てください」と書いてあった。それを読んで、とても嬉しかったんです。緊張しながら一所懸命演じるのではなく、のびのび演じようという気持ちになりました。

山田 その2年後にもう一度、『寅さん』に出てもらって。それからしばらくタイミングが合わなかったけれど、34年経って、『母べえ』で小百合さんにお母さん役を演じていただいた。

吉永 そうでしたね。私は『母べえ』に続いて『母と暮せば』にも出演させていただいて、監督はお母さまへの思いがとても強いんだということを、常に感じていました。『母べえ』のプロモーションで、地方を回ったことがあって。九州では湯布院から博多まで、列車で監督とご一緒しましたでしょう。

山田 あぁ、そんなことがありましたね。

吉永 その車中で助監督時代のお話をしてくださったのが、とても印象に残っているんです。当時、お母さまが別府にいらして、たまたま熊本ロケがあった時に1日だけお休みがあった。そこで監督に「別府に行かせてください」と頼み込んだ、と。そのお話を聞いて、なんだかジーンと胸が熱くなりました。

山田 僕の母親は3回結婚しているんです。別府では、大学の先生と結婚していてね。僕は母が暮らす家を訪ね、その人が大学から帰ってくるのを待っていた。そして初対面の挨拶をするわけだけど、お互い緊張しているんだね(笑)。その先生も、なんか、つらそうというか……。

吉永 そうですよね。

山田 その人は「よく来てくれたね」と言って、おふくろはそばで涙ぐんでいるし。でもまぁ、来てよかったんだなと思ったりしてね。その晩、一緒にご飯を食べてお酒を飲んで。彼は酔っていい気持ちになったのか、ギターを持ってきて、オペラのアリアを弾き語るのよ。『カヴァレリア・ルスティカーナ』だったかな。びっくりしたね。あ、そういう人なんだ。おふくろが惚れるわけだ、と。(笑)

吉永 素敵なお話! やっぱり何歳になっても、恋する気持ちというのは大事ですね。

山田 僕はオロオロしながらも恋する母親を観察し、いつの間にかちゃんと一人の女性として見る習慣がついていた。

吉永 そういうご経験もあったから、今回、「母」3部作の3作目となる『こんにちは、母さん』で、恋するお母さんを描こうと思われたんですね。