不幸の数と幸福の数を勘定しても虚しいだけ
チャグムは、己の感情を爆発させたあと、周囲への八つ当たりをやめられずに悩んでいた。そんな彼に対し、バルサは淡々と言葉を紡ぐ。
“「泣きたいんだろ。どうしようもなく胸の中が重くて、せつなくて、そうかと思えば、たまらなく腹がたって、おさえられないんだろ」”
“「だけど、八つあたりじゃ気分は晴らせないよ。あんたは、それほど馬鹿じゃないからね。そうやってれば、やってるほど、どんどん、むなしさがたまって、よけいにいらつくだけさ。ーーそこらで逃げるのをやめて、ふりかえってみな。むかむかのもとが、なんなのかをね」”
バルサの台詞は、一見すると辛辣なものに見えるかもしれない。しかし、バルサのこの言葉は、自身の体験から出たものだった。バルサ自身が、「何も悪いことをしていないのに、多くを奪われてきた」者のひとりだったのだ。
バルサの父は、王に仕える医術師だった。だが、王位継承の争いに巻き込まれ、バルサの父は命を狙われてしまう。母はすでにこの世に亡く、バルサの命は父の親友であったジグロに託された。ジグロは名誉高き「王の槍(王の命を守る者)」の地位を捨て、友の娘を守るためだけに生涯を捧げた。
バルサが追手に追われながらの流浪生活を強いられたのは、六歳の頃であった。年端もいかない子どもが国にまつわる陰謀に振り回され、突如、命を取るか取られるかの渦中に放り込まれる。それは、どれほどの地獄だろう。過酷な毎日にあって、バルサの心は荒み、いつしかジグロに八つ当たりをすることが増えていった。チャグムが、バルサにそうしたのと同じように。
バルサの言葉を受けて、チャグムはハッとしたように己を振り返る。命の恩人であるバルサにやり場のない怒りをぶつける行為は、ただの甘えであったことに気付き、チャグムは自分を恥じた。危険な橋を渡っているのは、自分だけではない。「皇子の護衛」という重い任務を成り行きで任されたバルサもまた、苦境に立たされている側なのだ。チャグムの自罰的な感情を察したバルサは、その気持ちをなだめるように、養父・ジグロの言葉を伝えた。
“いいかげんに、人生を勘定するのは、やめようぜ、っていわれたよ。不幸がいくら、幸福がいくらあった。あのとき、どえらい借金をおれにしちまった。・・・そんなふうに考えるのはやめようぜ。金勘定するように、過ぎてきた日々を勘定したらむなしいだけだ。”
「別れよう。追手に負けて死んだら死んだで、それが私の人生だ」ーーそう告げた十六歳のバルサに、ジグロが返した言葉がこれだった。
ずっと、人生を勘定してきた。不幸の数と、幸福の数。周りと自分を比べては妬み、過ぎた日々を振り返っては恨みを募らせ、失ったものの数を数えてはほぞを噛む。その結果、得たものはない。勘定すればするほど、心は枯れていく。ジグロの言葉が、私の胸を刺し貫いた。はじめは、痛みの方が強かった。だが、それは膿を出し切る間際の痛みだった。痛みの後に訪れたのは、圧倒的な静寂だった。