今から考えたらあれがセクハラだったのかなと思うことも
あの時代、芸人の世界は、何年間かは売れっ子の方のお弟子さんをやって、それからデビューというのが慣習でした。ところが吉本が1986年に「心斎橋筋2丁目劇場」を立ち上げた矢先で、コントをする若手を必要としていたことが幸いし、私たちは即、舞台に出ることに。「コントならできます。漫才は無理です」と申告していたので、大﨑さんとの口約束では「漫才ができないなら、やらんでええ」って話だったのですが、あっという間に反故にされ「やっぱり漫才やれ」ってなりました。(笑)
「なんばグランド花月」という老舗の劇場に立たされ、笑いに厳しいお客さんの前で慣れない漫才をして、全くウケなくて辛かったですね。でも、コントをやる「2丁目劇場」と漫才の「花月」を目まぐるしく行き来するうちにだんだんコツが掴めてきました。私たちは幸い辛いと思うことはあまりなかったですけれど、あの頃は今と比べられないくらい男性社会で、女性芸人は端から少なくて、やめていく人も多かった。
当然、女性用の楽屋もなくて、小学生がプールの時使うみたいなカッパを手作りして、首元キュッと締めて中で着替えたりしていました。スケジュールも過酷で、劇場出演から地方営業、学園祭がある繁忙期には3日間で合計3時間しか寝てない、なんてこともざらでした。